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六.旅立
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ジグルの夏は短い。 一年を通して最も過ごしやすい季節は、求める者がいることを知らぬかのように足早に過ぎ去ってしまう。必死で呼び止める声にも決して耳をかさず、振り返りもせず、残り香すらも楽しませてくれない。 今年の夏もまた、やはり変わりなくもうすぐ終わる。 どれだけ名残惜しもうとも、容赦なく時は巡る。そして人は、そんな移ろい行く時の中を生き、知らず知らずの内に歴史を重ねていく。 そう。歴史は刻まれている。徐々にではあっても確実に。 途方も無いと感じられた理想は、時を費やし形になりつつある。 他に必要なのは、時間だけ。 皆の生活に溶け込むための時間だけ。 もう少し。もう少し。 後一年もすれば、それだけの時を注ぎ込めば。 「……もう少し……」 生まれたての弱い太陽の光。白い靄の中。 静まり返った街道の脇の木に凭れ、カリーナはそっと呟いた。手には頭上から舞い落ちてきた木の葉。それを指先で玩び、眺める。化粧を落とし男の衣装を纏い、剣をはき夏用の外套と荷物を足元に置いて、カリーナは一人待っていた。 遠くから近付いてくる蹄の音が耳に触れたので街道に出る。朝靄の中からやってくるのは一頭の赤毛の馬、それに乗るゲルヌ。 カリーナの姿を認めるとゲルヌは馬を下りた。手綱を引いて寄ってきた。 「お待たせしました」 息を弾ませて彼は言った。カリーナはそんなゲルヌに口元を綻ばせる。 「いや。こちらこそ済まない。助かった」 「お役に立てて光栄です」 「しかし泥棒まがいのことをさせてしまった」 「かまいません。カリーナ様のお役に立てたのなら。それに、この馬はカリーナ様の愛馬。盗みだしたことにもなりません」 「愛馬、か。そうだな。こいつとは戦地を駆け抜けた仲だ。なのに三年もの間放っておいてしまった。……私のことを覚えているか?」 やさしく声をかけ首筋をそっと撫でた。 馬の真っ黒の眼に知っている輝きを見て、カリーナは首を抱く。懐かしい匂いを鼻にして、以前の自分に戻れたような気がした。 軽く首を叩いて離れると、木の根元に置いてあった荷物に寄った。持ち上げ馬の背に乗せる。 「あの……カリーナ様」 左右の均衡を取ろうと苦心している時、静かにゲルヌが呼びかけてきた。荷物から目をそらすことなく、カリーナは応える。 「なんだ?」 「……やはり、私はお供させてくれないのですか?」 眉を寄せ揺れ動く眼差しのゲルヌを見た。 彼が自分に付いて行きたいとそう最初に言ったのは、もっと前のこと。その時カリーナは、ゲルヌを宥め説得し、ゲルヌもそれに納得し、それからは一度もそのようなことは口にしなかった。だが、今日この日が近付くにつれ、彼が再び同じ事を言いたがっているのだということは分かっていた。話が口の端にのぼるごとに、ゲルヌの眼差しが揺れたから。そう、今のように。 カリーナは軽く目を伏せると溜め息を付いた。ゲルヌに向き直り、改めて説く。 「何を言っている。お前は今となっては、ジグルに欠かせない存在だ」 「それはカリーナ様もです」 「私は違う。私は逆にいてはならない存在だ」 「民は皆カリーナ様を崇拝しています。カリーナ様に付いていきたいと、そう願い、ここまで来ました」 「皆が崇拝しているのは私ではない。【月の印を抱く者】という虚像だ。それは私ではない。このことは、お前が一番よく知っているだろう」 「……はい。祭司の衣装を纏い化粧を施されたカリーナ様は、カリーナ様ではありませんでした。今私の目の前に立っていらっしゃるカリーナ様こそ、私の存じ上げる気高き御人」 「ジグルにいれば、私は【月の印を抱く者】でいなければならない。皆を導く存在でなければならない。しかし、それではいけない。ジグルを作り上げていくのは私一人ではない。皆なのだ、ジグルの民なのだ。私が皆の前にあり続ければ皆私に道標を求めるだろう。自らの行く末は自ら考え出すという事を怠るだろう。……今まではそれでもよかった。ジグルという一つの国家を作り上げていくにあたって一番大切なのは皆の足並みが揃うことだ。だが、これからは違う。これからは、皆一人一人が考え、自らの未来を決め、手にしなければならない。【月の印を抱く者】に全てを委ねてしまってはいけない。そうだろう、ゲルヌ」 「……はい。確かに。しかし、私は――」 「その未来の実現のためには、どうしてもお前の力が必要だ。この考えを理解し、率先していく人物が必要だ。最高位祭司殿とダウバ将軍。そして、祭司でも軍人でもないお前」 【月の印を抱く者】カリーナの新体制が動き始めたとき、ゲルヌは軍を退役していた。それはカリーナの身辺を守る近衛隊長となり、カリーナの片腕として働くためだった。だが、カリーナがいなくなれば近衛隊は解散される。ゲルヌは特に肩書きを持たない、貴重な要人になる。 「……分かっております。カリーナ様が考えた末こうしてジグルを去ろうとしていらっしゃることは。あとにするジグルのためを思って、たった一人存在を消されようとしていらっしゃるということは」 カリーナが今まさにジグルをあとにしようとしていることは、ほんの数人しか知らないところだった。政府の上層と、カリーナの傍にいた者たち。限られた、十人にも充たない者たち。 他の者にはこう伝えられる。カリーナは【月の印を抱く者】としての役目を終え、月に帰っていったのだと。そして数多の時が巡れば、必ずまたこのジグルに姿を現すのだと。 「…………」 カリーナは外套を羽織った。 朝の冷たい風に、身軽るに裾は翻る。 暖かい陽射しを肌に感じて空を見上げた。 鳥が甲高く鳴いて青みを増してきた空を飛ぶ。 靄が晴れそうだ。 白い霧がカリーナの顔を朧にしているうちにジグルを出なければならない。 出立の時は迫っている。 「そろそろ、行かねばな」 口にして手綱を手に取った。 ひらりと馬の背に跨がった。 三年ぶりの感触。まだ感覚は衰えていない。馬を駆り戦地を駆け抜けた記憶が昨日のことに思い出されて、目を細める。 道の先には誰の屍もないのだ。血の痕も大地に浄化され、そこにはもうないのだ。それだけの月日がいつの間にか流れ去ったのだ。 「――どちらへ、向かわれるのですか?」 尋ねられて、考える。 途端、見たことがないはずの真っ青な世界が脳裏に浮かんだ。その世界の風は、さぞ暖かいことだろう。 「海、だ」 「海?」 「そうだ。青い水の広がる海だ」 「そこに、あの男がいるのですか?」 あの男――右頬に傷を負った、あの傭兵。 「……生れ故郷だと、奴はそう言った」 戦争終決後、カリーナは彼を捜した。ゲルヌにも言い付け所在をつかもうとした。しかし彼は見つからなかった。彼の弟分という者も見つからなかった。二人とも何処にもいなかった――亡骸ですら。 だから、カリーナは彼を捜そうと思っていた。ジグルを出て自由の身になったら、絶対に捜し出し、会うのだと。 ゲルヌや当時の他のカリーナ隊の人間は、皆あの状況で生きていられるはずがないと言った。それにカリーナは首肯しなかった。亡骸が目の前にあればともかく、ないのなら奴は絶対に生きていると、そう言い張った。 それに、生きてもらわなければ困ると、カリーナは思っていた。 あいつには大切な物を預けている。そのために、何としてでも会って、それを奴の手から取り返さなければならないのだと――。 「――――」 彼の不敵な笑みを思い出して、カリーナは思わず微笑んだ。それを隠すように外套のフードを目深にかぶった。フードの陰から、下にいるゲルヌに視線を向ける。 「では、ゲルヌ。見送りありがとう。お前のこれからの活躍に期待しているぞ」 寂しげに彼はカリーナを見上げていた。そのような顔をするなと言うと、彼は最後に一つだけ教えてほしい、と、躊躇いがちに口を開いた。 「――もし……もし、そのカリーナ様の大切な物を、奴ではなく私が持っているとしたなら、……カリーナ様は、ジグルを捨てて、私を捜し出してくれましたか?」 ――鳥が鳴いた。 木の上から、二羽の小鳥がはばたいていった。 朝の光に向かって、つがいは迷うことなく飛んでいく。 輝ける、空の中。 澄み渡った、天の下。 「――さらばだ、ゲルヌ」 フードの影でカリーナは笑って答えた。 別れを告げると、雄々しく馬を走らせた。 振り返りもせず、彼女の姿は小さくなっていく。 つがいの小鳥を追うように、光の中に溶けていく。 「……さようなら、カリーナ――」 笑顔で旅立つ彼女を見送って、ゲルヌは踵を返した。 清々しい微笑みで真っすぐ前を見据え、彼もまた、まだ朝靄のかかるジグルに向かって、ゆっくりと足を踏み出した。 ――完―― |