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五.月の印
〜3〜
 

 月明かりが眩しかった。
 満月の満ち満ちた光は、下界のものの輪郭を朧気に浮かび上がらせる。
 そんな明かりが、カリーナには眩しくて仕方なかった。
 淡く全てのものを照らし出してしまうのなら、いっそのこと全部を覆い隠してしまえばいい。ちっぽけな慈悲などいらない。そう、思う。
 激しく躍動する馬の首にしがみつくようにして、道を進んだ。顔は真っすぐ前方を捉えていた。眩しい、月明かり。目を細めることはしなかった。叩きつけてくる風にも負けず、しっかりと両眼は見開かれていた。
 ただ、だからなのか、双眸は痛みを持っていた。じん、じん、じん、と、脳や鼻に響く痛み。乾いた瞳に徐々に涙を滲み上がらせる程の痛み。
 目をそらすことは簡単だった。目蓋を伏せて風の攻撃をやわらげることは簡単だった。だがカリーナはそれをしなかった。
 自分は、目を見開いて真っすぐ前だけを見据えていなければならない。全てが闇に覆われてしまえばいいと思いながらも、見ることが出来るのなら、決して逃げるではなく受けとめなければならない。視覚を通してやってくる衝撃を、自分の中で処理しなければならない。
 その思いが、何よりも大きく心を占拠していたのだ。
 ――カリーナは道を一度も振り返らなかった。振り返ったとしても、暗闇で何も見えないはずだ。しかし、振り返らなかった。遠い背後に自分の一部がとり残されているような気がしても、振り返り、それを取り戻そうとはしなかった。決して。
「――森を抜けます」
 カリーナより僅かに前方を駆けるゲルヌが口早に言った。途端、カリーナたちの視界は開けた。
 地質が変わって背の低い草が生い茂る斜面が暫し続く。向こうには岩山。その岩山の間にある道を上っていくと、また草原に出る。そこで渓谷は終わる。それより向こうはアーベンの土地。ヴィゼルは、岩山の頂上でジグルの領地の主張と天からの啓示の如く独立宣言を行なう。
 岩山には、カリーナ軍とは違う進路取っていた軍が最早辿り着いているらしい。風に乗って微かに雄叫びが耳に触れる。
「カリーナ様、あれは――」
 ゲルヌが突然声を上げた。彼の指差すほうに目を走らせて、カリーナは馬を止めた。カリーナたちが進む道から見て、左側に外れた所。草の上に横たわる、無数の兵。
 進むのを止めたカリーナ隊は、誰もが無言でそれを見つめる。
 ――ムルドゥ軍の戦いの跡。恐らく、今ここにいるカリーナ隊の中には、見知った人間を見付けた者もいるのだろう。
 同じ衣装を纏い、同じ剣を手にする彼らを目にして、自然と胸は締め付けられ呼吸は苦しくなる。置いてきた者たちのことも思い出され、耳が無性に熱くなる。
 地に伏しているあの存在が、つい先程まで体温を持っていたなど……。
「――行くぞ」
 冷たく言い放った。誰も異は唱えなかった。手綱を握り締めた。ゲルヌにまた先を行かせる。皆彼の後に続いていく。カリーナもすぐに続こうとした。だが、ムルドゥ軍の戦跡を越えた所に見知ったものを捉えたような気がして、思い止まった。
 目をこらす。月夜の闇の中、頼りなげなランプの明かりだけを携えて、不器用に斜面を上っていく一人の男。
 まさか。
 コルダ。
「ゲルヌ、すぐに参る、先を急げ!」
 その声がゲルヌに届いたかは知らない。が、言い放つと隊とは逆方向に馬を走らせた。道をそれ、草地の上を行き、数多の屍を尻目に、右足を引きずる恰好で歩む彼に近付いていく。コルダは、カリーナが蹄の音も高らかに寄っていこうとも顔を上げはしなかった。岩山だけを見ている。
「コルダ!」
 背後から近付き頭上から名を呼んだ。びくり、と体を震わせて彼は立ち止まった。徐にカリーナを振り返る。左手にランプを持ち、右手には弓矢を抱えている。なのに、振り返ったその顔は、恐怖に支配されていた。ひどく不安げにカリーナを見返すのだ。
「何をしている? お前も戦う気か?」
 意識せずとも語気は荒かった。それが彼をますます怯えさせた。彼の唇は微かに動くだけで、声は洩れ出てさえいなかった。
「私のことが分からぬか? 川辺で話をしたはずだ」
 あの時確かにカリーナは顔を隠していた。だからその可能性は充分にあった。案の定、コルダは何かに気付いたらしく、次第に落ち着きを取り戻していく。
「……カリーナ将軍……」
「どこへ行く気だ。ここは戦場だぞ」
「俺も戦える!」
 反射的に返ってきた言葉に、カリーナの方が言葉を詰まらせた。
 戦えるだと? その足で?
「俺も戦う。そうだ。戦う。戦わなければならない。いつまでも逃げていてはいけない。逃げていては……」
「それでここまで一人でやってきたというのか? 戦うために? お前は自分で戦えぬと申したではないか。その足のために徴兵からも外されたと」
「そうだ。途中まで馬で来た。俺は戦う。戦えるんだ。こんな足でも戦わなければならない。今まで戦ったことはない。逃げていたからだ。その気になれば俺にだって出来るというのに。俺は、ここに来るまでの間に人を殺してきた。二人。この、弓矢で」
 彼が抱えている弓矢は大型のものだった。何処で手に入れたのか。猟に使うものではない。戦争時に使うもの。矢を遠くまで飛ばすだけの威力のあるもの。人ももちろん充分に殺せる。
 しかし、それを手にしているとはいえ、一人で戦場に赴こうなど、尋常ではない。
「――――」
 カリーナは自分を見上げるコルダを訝しく思った。これが本当にあの時言葉をかわした男だというのだろうか。瞳に宿す光が全く違った。あの時自分に見せた、穏やかな、それでいて芯のある強い煌めきは微塵もない。今の瞳は――狂気に充ちている。戦いがもたらす狂気?
「頼む。俺を連れていってくれ。俺を、戦場まで」
「馬鹿を言うな。その足で何ができるというのだ」
「出来る。否、出来なくてもいい。ただ、俺は見届けなければいけない。ヴィゼルを――ヴィゼルの姿を見届けなければ――」
「足手纏いになるだけだ」
「ヴィゼルの姿が見えたら捨ててくれていい」
「今まで何もしなかった奴がなぜ急にそんなことを言う」
「今まで何もしなかったからだ。そのためだ。今まで逃げていたからだ。その代償だ」
「何のためにそれほどまでにしてヴィゼル様のお姿を目にしたいと――」
「未来だ! 未来を手にするためだ!」
「未来だと――?」
 呟いたその時、不意に地中を這い廻るうねりが響き伝わってきた。顔を岩山に向ける。とてつもない力の気配を感じた。無数の力のうねり。人の感情と思惑が渦を巻き、風向きさえも変えさせてしまうほどのうねり。
 その中心には、恐らく、ヴィゼル、その人。
 彼女が、姿を現したのだ。とうとう彼女が兵士たちの前に。戦いを、終わらせるために。
「――お前は、未来のためだというのだな?」
 カリーナは、苦々しくそう口にする。
 コルダは、力強く是と答える。
 彼の、迷いのない瞳に、カリーナは覚悟を見た。
「――後ろに乗れ。急ぐぞ」
 カリーナは手にあった槍を捨てコルダを馬上に上げると、草地を走った。風を切り岩山の道を駆け登った。休むことも速さを緩ませることも許されなかった。急がなければ、全てが手遅れになってしまう。一刻も早くうねりの中に身を投じなければ、未来を目のあたりに出来なくなってしまう――。
「……俺は、もう逃げない……逃げないよ。戦うんだ。俺も戦うんだ。ヴィゼル……愛している。今でも、愛している。……だから、だから二人で、……俺たちの未来を……」
「舌を噛むぞ、口を開くな!」
 譫言のようにコルダは馬上で呟いていた。カリーナが注意を促しても聞き入れなどしない。彼は声を出すことをやめない。不気味な呪文のようだとカリーナは感じつつも、それ以上は相手にしなかった。
 あの時会って以来、彼の中で何があったのかは知らない。多分、彼の周囲で、彼の中で、それまでの思いを覆すだけの何かがあったのだ。今の彼はあの時のコルダとは違う。ヴィゼルを過去の人だと言い、ジグルの未来にだけ思いを馳せていたコルダとは違う。しかし、カリーナにとってそれはどうでもいいことだった。彼がヴィゼルを見たいという。未来を見たいという。その思いが同じ。だから自分は彼を連れてヴィゼルを目指す。ただそれだけのこと。今まで求めていたものがそこにはあるというだけのこと。
 二人の跨がる馬は、疲れを忘れたかのように駆けた。荒い肌の岩山の道を登り切ると戦場がのぞめた。最前線は草原にかかっている。渓谷を越えたジグル軍を押し返したいアーベン軍の後方部隊は、集結したジグルの軍勢を前に列を組み隙をうかがうだけ。ジグル軍もこれ以上渓谷側にアーベン軍を侵入させまいと睨みをきかせるだけだった。そんなジグル軍の後方戦列にムルドゥ軍はいた。それに寄り添うようにして、ゲルヌを始めとするカリーナ隊もいた。彼らもアーベン軍の方を向いてはいたが、戦火を交えてはいなかった。
「――――」
 戦いが、終わるのだ。
 それをカリーナはひしと感じた。ジグルはこれ以上前には出ない。これ以上アーベン軍を渓谷内に侵入させないようにするだけで、アーベンの領地を占拠しようなどという腹はもとからない。一度アーベン軍が退いたならば、ここに陣張り、守りに撤し、交渉の席に着く。交渉は、ジグル優位に進むだろう。それだけの根回しはしてきた。この戦いに勝利することが、最後の一手だったのだ。
「――――」
 勝利を目の前にして、一瞬カリーナは動けなくなった。ふと、再びうねりを感じて、視線だけを右手側に流した。
 最前列よりも渓谷側。草原にいる両軍全ての兵を見下ろすように、岩山の頂上がそこにはある。
 その頂上に続く道の下に、彼女はいた。月の如くに気高く凛とした美しき彼女が、ヴィゼルが。
 数多の近衛兵と女官と将軍ダウバを従えた彼女の乗る輿は、悠然と頂上に向かって登っていく。
 頂点で、独立宣言は行なわれる。今まで死闘を繰り返してきた両軍の兵たちが見守る中、ヴィゼルは神々しく全ての者に宣告をするのだ、今ここに、ジグルは本来の姿を取り戻す、と。
 時は訪れる。
 まもなく。
 待ち望んでいたその瞬間がやってくる。
 今。
 革新、変革、希望、未来。
 【月の印を抱く者】ヴィゼルと共に訪れる、月の意志、独立。
 あるべきジグルの姿が、現実のものとなって存在するようになる――。
「――――」
 しかし、直前に、うねりの渦は、揺れた。
 迷いなく歩みを続けていた渦の、保たれていた均衡は破られた。
 打ち付ける嵐の風の如くカリーナの中に押し寄せる、不安。
 視線の先で何が起こっているのか、それは分からない。だが、駄目だと思った。それではいけない、と。
 突如として溢れだした焦燥感を放っておくことは出来なかった。カリーナの心中に呼応するかのように馬はいななき首を捻った。乾いた血の張りつく右手に、手綱をまたきつく巻き付けた。
「コルダ。ここまでだ」
 強引に彼を降ろす。彼がどんな顔をしていたか、それは分からない。
 身が軽くなると同時に馬は走り出していた。ジグル軍の兵が武器を手に疎らに立ち尽くし一点を見つめる中を、カリーナは駆けた。
 右手側には傾いた満月。左手側には白々とし始めた地平線。
 頂上を目指すのは彼女、ヴィゼル。
 そう。均衡を破ったのは彼女だった。彼女が、考えられないことをしでかしていた。まだ頂上には程遠いというのにもかかわらず、輿を降り、たった一人自らの足で斜面を登り始めたのだ。もちろん予定にはないことだ。彼女が息を弾ませて頂上を目指すということなど。
 それがカリーナに不安を生じさせたのだ。将軍級以下の兵たちは、カリーナが何を焦っているのか分からず、否、馬を急ぎ走らせているカリーナの姿に気付くことなどなく、ただその訪れる時を鼓動を早めて待っている。
 が、ヴィゼルに付き添っていたダウバはカリーナと同じ思いを抱えた。彼もヴィゼルの跡を追おうとした。それを人垣となった女官と近衛兵に阻まれていた。
 カリーナも馬をとび下りるとダウバに並んだ。強引に進もうとすると女官が立ち塞がる。
「何をする……!」
「それはこちらの言葉です。何をなさるおつもりですか、将軍。ヴィゼル様は、月の意志で事をなされようとしていらっしゃる」
「だからといって、この状況を見捨てておけというのか!」
「お二人とも何を慌てておいでです。ヴィゼル様は、いつ何時でも月と共にあられる」
「あの方のなさっていることが、どれだけ危ういことか分かっているのか?」
「ヴィゼル様は、全てをご存じです」
「そうやってお前たちは未来を台無しにするつもりか!」
「それはヴィゼル様に対する侮辱です、ダウバ将軍」
 カリーナとダウバは激昂した。だが、ヴィゼルを絶対の運命と心から信じ付き添ってきた女官たちは道を譲ろうとはしなかった。ヴィゼルは最早、頂上に近い位置にいる。一刻の猶予もない。
 カリーナは覚悟を決めた。そう。自分の望む未来を得る覚悟。どのような覚悟であっても、それは今更ではなかったのか?
「――道をあけろ!」
 腰の剣を抜き鋭い刀身を横に一閃させた。宙に銀の軌跡が描かれる。女官たちが怯むその隙をついてダウバが駆けた。カリーナも続いた。
「月に歯向かうおつもりか――!」
 背中に投げかけられた誰かの叫びなど、カリーナには何の痛みも与えなかった。
 カリーナは上だけを見ていた。アーベンに向かい佇むヴィゼルを。威厳と気品を纏った彼女を。揺るぎない意志を秘めたる彼女のか弱い後ろ姿を。
 夜が、あける。地平線が赤みを帯びる。
 夜が、あける。月が、沈む。
 ――と、突如として、カリーナの視界に飛び込んでくる、一筋の閃光。
「ダウバ将軍!」
 途端に彼が倒れた。二の腕には矢が突きささっていた。
 太い矢。ジグルの矢。
 見覚えがあって、カリーナは下界を見下ろした。アーベン軍の陣地にではなく、ジグル軍の真っ只中に――そこに、彼はいた。彼の傍らには剣を振りかざし、させまいとしている兵。その兵に気付きながらも、新たな矢を弓につがえ、天に目がけて射わんとしている彼――死ぬ、覚悟など――。
「やめろ、コルダ!」
 絶叫が、響いた。
 ヴィゼルが、振り返った。
 彼女の長い髪が風になびく。
 月明かりに照らされた彼女の美貌が歪む。
 神を降ろしたその身が、矢を抱いて崩れる。
 崩れる。
 崩れる。
 崩れ落ちていく――。
「ヴィゼル様!」
 地響きと共に断絶魔が地のうねりとなって駆け巡っていく中、カリーナは必死になって手をのばしていた。
 その身を決して落としてはいけないと、その思いが彼女の体中を迸しった。
 自制を失ってもなおしなやかに落ちていくヴィゼルの体を、カリーナは一瞬の差で捉えた。
 強くヴィゼルの頭を抱く。
 いつも遠くからしか目にすることのなかった彼女の顔を間近にする。
 美しすぎるほどに整った顔立ち。
 雪の如く白い肌。
 見開かれた澄んだ双眸。
 蒼に彩られた神秘的な唇――。
 燈が、消える。
 腕の中で、カリーナは感じた。
 希望の燈が、消えていく――。
 神がかったヴィゼルの顔が滲む。月明かりに映える彼女の姿が滲む。
 過去に見たヴィゼルも、記憶の中のヴィゼルも、全てが無情にはかなく擦れていく。
 ゆっくりと、彼女が今、今、消えていくのだということが……。
「――コルダ――」
「…………」
 鼓動の音が止む。
 息遣いが、止む。
 カリーナに全てを預けるようにして、腕の中に頭が落ちる。
「……ヴィ……」
 果てのない、沈黙。
 無情な静寂に、涙は頬を伝う。
「……ヴィ……ヴィゼル……」
 微笑んだ彼女。
 コルダの名を囁くと共に安らいだ顔を浮かべた彼女。
 その彼女が、今、こうして、力なく腕の中にいる。
 いる――。
「おおお、おおおお……!」
 これが、これが結末なのか?
 我々が求めたものの最期なのか?
 数多の人が命を落とし、生き残った人々が皆傷ついたのは、この終末を迎えるためだったのか?
 この瞬間を目のあたりにするためだったのか?
 未来とは、我々の目指した未来とは、このようなものだったのか――?
「……コルダよ……コルダ……ヴィゼル様……!」
 カリーナには分からなかった。
 この結末の意図することなど、分かりはしなかった。分かりたくもなかった。
 何一つとして認めることは許されず、カリーナはひたすら問いを繰り返した。
 あなたたちは何を手にしたかったのだ、と。
「……コルダ……ヴィゼル様……!」
 一体何を求めていたというのだ。
 未来か? 未来なのか?
 これがあなたの望んだ未来だというのか? これで満足だったと、そう微笑むことが出来るのか?
 なぜだ? なぜ死に救いを求める? その先に何があるという?
 自分たちは戦った。命を懸けて戦った。それはこのような結末を迎えるためじゃない。死という救いを与えるためじゃない。
 生きるためだ。未来を生きるためだ。
 それを捨てたのはなぜだ?
 なぜ生きなかった? 死の先にこそ未来があると、なぜそう言い切れる?
 あなたたちはそれほどまでに、私たちを見捨ててしまうほどまでに、生きることに絶望したというのか――!
「おおお、おおおお!」
 理解できない。理解などしたくない。苦しい。息が苦しい。胸が苦しい。
 絶望だ。そう、絶望がカリーナを支配した。苦しめた。
 ヴィゼルとコルダもこの絶望に打ちひしがれたというのか? そのための死か? そのための未来か?
 ならば何がそれほど苦しめたのだ? 何が二人を追い込んだのだ?
 何故だ、何故だ!
 沢山の人が死んだ。味方も敵も、数えきれないほど沢山の人が死んだ。無数の人の屍が地に転がったんだ。それはこんな結末を迎えるためじゃない。死を救いとするためじゃない。
 生きるためだ。
 未来を生きるためなのだ。
 それだけを目指して命をもなげうったのだ。
 なのに、なのにヴィゼルは、コルダは――!
「あああ、ああああ!」
 命の脈動が消えたヴィゼルの体を抱いてカリーナは慟哭した。
 岩山の頂上で嘆きを天に示すように、涙で渇いた大地を潤すように、カリーナは泣いた。
 目の前に突き付けられたあまりにも酷な現実に、カリーナの心は破壊されんばかりだった。
 苦しいのだ。悲しいのだ。
 止め所なく溢れる悲しみが、憤りが、行き場をなくし体を震えさせるのだ、嗚咽をもらさせるのだ。
 どうすることもできなかった。ただ、突き付けられた状況を否定するかのように、月の化身たるヴィゼルの頭を、苦しむ胸に強く押し当てるしかなかった。
 なぜこんなところで運命が壊れなければならない?
 そうだ。月の意志が途絶えるものか。実現されぬまま、このまま終わるはずなどない。
 月はいる。自分たちと共にある。だから、絶対に未来がなくなることはないのだ。
 今に、今にヴィゼルは目覚める。
 肌には血の気がさし、たおやかに呼吸は繰り返され、しなやかに指先は動きだす。
 そして彼女は凛として立ち上がり、下界に向かって告げるのだ。
 そうだ。告げるのだ。やっとようやく、我々は確信を手にする。未来は、我々と共にあると、今、ここに存在すると。
 そのためにヴィゼルは、【月の印を抱く者】は――目を醒ますのだ。
「……ヴィゼル様……」
 ゆっくりと腕を開き、カリーナは涙に滲む彼女の顔を覗き込んだ。より一層白さを増す肌の色。服の上からでも伝わってくる冷えた体の感触。
 カリーナの幻想を打ち破る。どれほどその顔を見つめても動くことはない。生気が蘇ることはない。
 奇蹟は得られないのか? 月の力を以てしても我々に奇蹟は訪れないというのか? 自分たちに希望はないというのか――!
 強く彼女の肩を掴んだ。絶望が喉を通して強く発せられた。涙の熱い粒がヴィゼルの青白い肌で弾けた。風に乗り、地に落ちた。
 風だ。全てを浄化せんとする風だ。
 カリーナの短い髪を玩んでいく。
 ヴィゼルの長い髪を優雅に棚引かせていく。
 それが透き通るような彼女の首筋を顕にした。
 カリーナはそっと震える手で触れた。
 今まで何人たりとも目にしたことのなかったヴィゼルの首筋。そこに印されているという【月の印】。
 いとおしかった。
 感触があったので、優しく指先でなぞった。
 ゆっくりと退かし、目にする。
 【月の印】。
 月の意志を代行する者だけに与えられる、運命。
 それを。
 
 
 
「――――」
 
 
 
 目にとめた、瞬間。
 留まることを知らず溢れ出ていた涙は、自然に流れることをやめた。
 カリーナは、見つめた。
 双眸を見開き、食い入るように印を注視した。
 
 
 
 【月の印】。
 
 
 
 間違いなくそれはそこにあった。
 望月と三日月が重なったような印が。
 月の意志。
 ジグルの運命、それが。
「…………」
 しかし、これは。
 火の、痕。
「……火の、痕……?」
 火傷の、痕。
「……火、の……」
 運命。
 ジグルの運命。
 ヴィゼルの運命。
 コルダの運命。
 数多の人の運命。
 それを決定付けた、【月の印】。
 それが。
 火傷の痕。
「――――」
 はっきりと分かる。
 爛れた肉の痕。焦げた皮膚の痕。
 何かを押しつけたような、そんな余韻。
「……火傷……」
 生まれついてあったものなどではない。成長するにつれ自ずと浮き出た物などでもない。
 火傷の痕。
 熱した型のようなものを押しつけた、そんな痕。
「――――」
 それは、言い伝えられた【月の印】ではない。
 それは、我々が求めた【月の印】ではない。
 それは、我々が信じてきたものは、【月の印】ではない――【月の印】ではない!
「あああぁ!」
 見えた。
 全ての絡繰り。
 理解した。
 全ての意図。
 【月の印】が指し示す、思惑、意志、野望。
 ヴィゼルが見いだされて十年――否、ともするとそれ以上の年月をかけて行なわれた大芝居……!
 ヴィゼルの絶対的な美貌、威厳、気品。教え込まれた兵法、馬術、剣技。突如衰退した祭司たちの権限、増大した軍部の発言力。突然のジグルの悲願、独立宣言、宣戦布告。
 全てだ!
 それら全てが仕組まれたものだったのだ!
 今は亡き彼によって。そう。ヴィゼルを見出だしてきたニトゥカ将軍によって!
 ヴィゼルは彼の野望を実現させるための人形でしかなかった。彼女ほどの器量、他を圧倒できるほどの美貌があれば、運命はヴィゼルでなくてもよかったのだ。
 ヴィゼルは虚像。
 ニトゥカの夢。
 そう、ただの女でしかない。
 月の意志など代行できる者などではない。
 運命の人などではない――!
 ならば自分たちは何のために戦ってきたのだ? 自分たちはヴィゼルを【月の印を抱く者】だと信じて疑わなかった。彼女は神がかっていた。その言葉の節々に、その仕草の節々に、自分たちは彼女に月を見た、運命を見た。
 それは全て嘘だったというのか? 幻に過ぎなかったというのか?
 そうだ。虚偽だった。
 自分たちはそこに神を見たわけではない。運命を見たわけではない。
 自分たちはそこに幻を見たのだ。ニトゥカの夢を見たのだ。自分たちは彼の亡霊を見ていたのだ――!
「あああぁ、ああああぁ!」
 何のために、何のために。
 命を捨てた、傷ついた。
 未来とは何だ、我々の目指していた未来とは一体何だったのだ。
 独立の向こうに一体何があったというのだ?
 我々が望んだものは何だ。
 我々が手にしたかったのは独立か? ジグルとしての誇りか?
 違う。違う。
 我々が手にしたかったのは未来だ。月と共にある未来だ。
 ただそれだけだ。
 それだけだ。
 それだけだったのだ。
 なのに、なのに――!
「あああぁ、ああああぁ!」
 裏切られた!
 裏切られた!
 ヴィゼルはなぜ我々を裏切った?
 コルダはなぜ我々を欺いた?
 何のためにヴィゼルは我々の前にいた?
 コルダはジグルのためと言うことが出来た?
 偽りが明るみになる事を恐れなかったのか?
 我々の心情など察するに足りなかったのか?
 何のために、何のために!
 今二人が死を選ばなければならなかったのだ?
 その二人が命を落とす意味は何だったのだ!
 
 
 
 
 
 ――未来だ。未来を手にするためだ――!
 
 
 
 
 
「!」
 地平線を染める赤を感じて、カリーナは弾かれたように顔を上げた。
 風が前方から通り過ぎていく。
 涙の向こう側では、新たな光が生まれつつある。
 照らしだされる大地。
 輝ける、世界。
 眼下の人界は、きらめいている。
 何も変わりはしない、いつもの夜明け。
 なのに、嘆きが聞こえた。世界を徘徊する嘆き、天に反響する嘆き。
 皆、泣いているのだ。
 ヴィゼルの死に、戦いの結末に、手にすることの出来なかった未来の終焉に――本当に? 本当に、そうなのか?
 我々に未来はないのか?
 未来は閉ざされてしまったのか?
 こうして、こうしてヴィゼルとコルダが望んだ未来を手にしたというのに……二人は柵を振りほどき、こうして望んだ未来を手にしているというのに。
 望んだ未来を。
 未来を。
 ヴィゼルとコルダは手にした。
 死という選択で、勝ち取った。
 ならば、ならば、なぜ我々が、なぜ二人と同じジグルの民である我々が、未来を切望する我々が、手にできない?
 未来は、……未来は、必ず月と共にあるとそう信じてきたことまでが嘘だったのか?
 月は我々をいつ何時でも見下ろしていてくれると、そのことまでも嘘だったのか?
 ヴィゼルの言葉一つ一つ、その全てが嘘だったと、そう言うことが出来るのか?
 こうして、こうして、ヴィゼルとコルダは未来を手にしたのに……世界は、大地は、悲しみを忘れ新たな未来を得ているというのに……!
「おお、おおお――!」
 カリーナは咆哮した。最後に一度、強くヴィゼルの体を抱くと、そっと地に横たえた。
 そしてカリーナは、震える膝で下界から吹き付けてくる風に負けぬように立ち上がる。
 左手にした剣を逆手に持ち、切っ先を天高く突き上げた右腕に差し入れる。
 弧を描いた傷をなぞるように、奥歯を食いしばって力強く刃で肉を引き裂く。
 顕になった瑞々しい肉から、泉のように溢れだす血潮。
 顔に降りかかる、鮮やかな、生暖かい赤。
 血のついた剣を足元に突き刺すと、眼下のジグルの民を見た、ジグルの地を見た。
 カリーナは、右腕をより高く掲げる。
 世界にある全ての者に、刻まれた印を示す。
 地に向かいすべり落ちていく鮮血。
 それを契約の証とするかのように、彼女は天から地へと、力の限りに吠えるのだ。
 
 
 
「聞けい! 生きとし生けるものよ――!」
 
 
 
 世界に響いていた嘆きが止んだ。
 皆涙を止め、血を滴らせるカリーナを見た。
 生まれ出た朝日を浴びる、彼女の腕を見た。
 弧を描いた、赤い月を。
 人々の視線が集まる。呼吸は止まる。
 だれもが、その瞬間を息を詰めてカリーナに求める。
 カリーナは、溢れ出る光と共に、全てに向かって宣告するのだ。
 自らの未来を、手にするために――。
 
 
 
「我はジグルの将、カリーナ! 我はヴィゼルより【月の印】を受け継ぐ者! 我は今ここに【月の印を抱く者】として、
 
 
 
 
 
 ジグルの完全なる独立を宣言する――!」
 
 
 
 
 
 朝日が世界を染めかえす中。
 ジグルの勝鬨が大地をうめ尽くした――。


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