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五.月の印
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満月の宵。 ジグル軍は雄叫びを上げ、駐屯地を跡にした。 駐屯地の先は、暗闇の森。 そこを、松明を手に、月の光に背を押されるようにしてジグル軍は突き進んだ。 先発隊は、その森の中で三方に分かれた。森ではおそらくアーベン軍とぶつかることはない。この森はジグルの森であり、この闇の中、アーベンが土地勘のない森に無謀にも突っ込んでくるとは考えられなかった。案の定、進軍しても敵は姿を見せることなく、ジグル軍はただ先を急いだ。 そんな闇の中で三方に分かれた軍の最後方には、ヴィゼルが続いていた。この戦いの最たる目的は、ヴィゼル自身による今一度の独立宣言。事実上の中立地帯と成り果てている森の向こう側の渓谷までを、ジグルは自分たちの領地だと考えていた。それは、アーベンに統合されるまでのジグルがそうであったからである。渓谷までを自分たちのものとして、やっと本来のジグルの姿が蘇ると、誰もが信じていた。そのために、なんとしてでもアーベンに渓谷までをジグルの領地だと主張しなければならなかった。それが今まではなされていなかったのだ。 ジグル軍は今回の戦いでアーベン軍を渓谷から完全に排除し、ジグルの信念と力を見せ付けると共に、ヴィゼルの手によって独立を再度改めて宣言し、戦いを終わらせ、前々より第三国から打診されている交渉の席に着くつもりでいた。 冬が、来るのだ。 ジグルの冬は寒い。雪に埋もれ、身動きが取れなくなるぐらいに。だから、毎年アーベンは、冬の到来直前に攻撃を仕かけ、ジグルに反撃できないほどの打撃を与えた。そうすることによって、自分たちが苦手とする冬にジグルから戦いを仕かけられることを避けてきたのだ。 その戦法を、今年はジグルが逆手に取った。アーベンが動くより先に動いたのだ。もちろん、アーベンもその動きには気付いている。かといって、アーベンには迎え撃つ以外に方法はなかった。下手により早くジグルを叩こうとも、そのせいで春が来る前にジグルが体勢を建てなおし反撃してきては意味がないからだ。 アーベンはジグル軍が来るのを待ち構えている。渓谷に入ったところで、ジグル軍を待っている。 ジグルの予測どおり、アーベン軍はそこにいた。 渓谷に程近い森の中で三方に分かれたジグル軍は、真っ先に左右の動きを押さえた。中央を進軍していた軍は、アーベン軍を渓谷の中程に押し戻したところで、また四つに分かれた。一つは、アーベン軍を左手前に押しやり、一つは、アーベン軍を右手前に押しやり、一つは、中央の敵軍を押しやり、一つは、ヴィゼルを護り左手側の道をゆく。 傭兵隊による戦力の大幅な増強を行なっていたジグルは、アーベンの大軍に決して引けを取らなかった。否、引けを取ることがなかったのは補強のためだけではない。ジグル軍の気迫がアーベンを圧倒していたのだ。ジグル軍は、ヴィゼルの口からこの戦いが最後と告げられていた。それを誰も疑いはしなかった。月がそう決めたのだと誰もが信じた。これで最後。これが、最後。その思いが異常なまでの勢いとなって現れていた。自分の身がどうなろうとも、ヴィゼルの目指す独立を自分たちはなすのだと――。 そんなジグル軍にアーベン軍は気後れした。今まで以上の気迫がアーベンの兵たちを震え上がらせた。それがまた、ジグルの勢いにつながった。アーベンの異変に気付いたジグルの指揮官たちは、勝機は我に在りと兵たちを奮い立たせもした。そうやってジグル軍は進軍を続けた。 だが、ジグル軍の全てが優勢だったわけではない。そう。迫力負けしたからとはいえ、アーベン軍もその名を隣国に轟かせたほどの軍勢。指揮官によっては恐怖心を一蹴してしまい、兵たちに自信を取り戻させた者もいた。そうなってくると、もとよりジグルより戦い慣れしているアーベン。一層の力を携え、ジグル軍より優勢な立場に立ち、ジグルを窮地に追いやってしまうのだ。 「カリーナ隊、進軍ー!」 暗闇の中、容赦なく地を這い回る雄叫び。咆哮。それに交じり、女将軍の怒号が空に響く。馬上で剣を手にし、手柄を立てようとやってくる兵たちを薙ぎ払いながら、カリーナは声を張り上げるのだ。 「ルゥワ隊、カリーナ隊を援護ー! 敵兵は全てここで押さえこめー!」 直ぐ様カリーナの背後で聞き慣れた声がしたので振り返った。カリーナが率いて来た軍の副将ルゥワが、馬上で力強く頷いた。 カリーナよりも二十近くも年上の彼は、一兵卒の身分から今の地位を築き上げた武人。人を導くだけの器量と冷静に全てを捉えられる目を持っているのに小隊長程度で終わらせるには勿体ないと、副将に大抜擢したのはカリーナ自身だった。 カリーナによって出世した彼のその後の働きは彼女の期待を裏切らないものだった。戦場での的確かつ機敏な判断はもちろんのこと、まだ年若く、しかも女であるカリーナの補助をよくこなした。カリーナを信じきれない部下たちを説いて回り、やる気を出させもしてくれた。腹心であるゲルヌが若さ故の情熱を持っているならば、ルゥワは重ねた年月故の沈着さを持っていた。ゲルヌはカリーナの傍でカリーナの片腕として働き、ルゥワはカリーナから離れたところでカリーナの兵たちの指導をした。 カリーナ軍の士気の高さはルゥワの力によるところが大きい。そうカリーナは思っていた。戦いの場において自分の声が隅々まで行き渡るのは、ルゥワがいてくれたからだ、と。彼がいなかったら自分の軍はどうなっていたか分からない、と、カリーナはルゥワの働きを見ては目を細めて喜び、彼を大いに頼りにしていた。 そんな彼が、今、その年老いた体を張ろうとしていた。命を懸けようとしていた。 カリーナ軍は先発隊の一軍として、渓谷の中央を突破しようとしていた。この進軍は、他の道をゆく全軍の中で最も激しいものとなるのは予測ずみだった。ヴィゼルが中央の道をゆくと見せかけるため、三方の中で一番多くの兵を向け、アーベン軍を引き付ける手筈だったからだ。思惑どおり、アーベン軍は大軍で阻止をはかってきた。だが、その戦力がジグルの予測を上回っていたため、渓谷の中央を任された軍はほとんど進軍が出来ない状態に追い込まれたのだ。 そこでジグル軍は先発隊を二つに分けることにした。ムルドゥ軍とカリーナ軍。ムルドゥ軍が道を駆けアーベン軍を混乱させると共に突破口を切り開き、カリーナ軍は背後でムルドゥ軍が逃した兵を仕留める。 その作戦は実行に移されて暫らくして息詰まった。ムルドゥ軍に続くはずだったカリーナ軍が足止めを食らってしまい、ついに背後をつかれたムルドゥ軍まで全く進めない状態に追い込まれたのだ。その状況を、カリーナはムルドゥからの早馬で知った。程なくして、副将のルゥワも知るところとなった。そしてルゥワは言ったのだ。「カリーナ隊はムルドゥ軍の援護に参られてください」、と。 「しかし、ならばルゥワ隊はどうなる」とカリーナは問い返した。現状ですら苦戦している。なのにこれ以上数を失ったらどうなるのか、と。 「覚悟は出来ております」 ――そう告げたルゥワの眼差しは、このような時であっても冷静そのものだった。未練や死に至る恐怖、自己の充足を得ることに臨む情念など、何一つ感じさせなかった。彼の中にあるものはこの状況を客観的に判断した目と、自分への義理。 殊勝な面持ちと口調で死の覚悟を告げられてしまっては、最早カリーナには何も言い返すことはできなかった。 「カリーナ隊、進軍、進軍ー!」 ゲルヌに先陣を切らせる。カリーナ隊は全員騎馬の精鋭部隊。強引にこの場を突破するのだ。 脇から伸びてきた剣を槍で叩き落として、カリーナはもう一度背後を振り返った。声を上げながら、敵と雄々しく刃を交えているルゥワ。感謝の言葉を述べる暇すらないのか、という思いと、もうあの雄姿を見ることは出来ないかもしれない、という思いが同時にこみあげてきて、下唇を咬んだ。ざらついた血の味がした。 「カリーナ隊、進軍ー!」 無用なほどの大声を張り上げて、カリーナは手綱を引いた。馬は嘶き地を蹴った。先をゆく仲間を追い、混乱の場を後にする。少し走るだけで刃のぶつかり合う音は聞こえなくなる。自分たちの乗る馬の蹄の音に空間が支配されたかのように思われた。が、直後に背後から人の絶叫がした。思わずカリーナは手綱を握り締めた。 蛇行を繰り返しながら下る道は、月明かりに照らされていた。 満月、だ。 最早傾きかけている。 戦いが終わる頃には夜が明けるのだろうか。今は暗闇の中、周りの状況を知るのもままならず、両軍ともただ、我武者羅に戦っている。が、夜が明け、全てが明るみ出れば、また情勢は変わるだろう。兵は皆、その惨憺たる状態に愕然とするかもしれない。それは分からない。自分のことも、だ。自分だとて、陽が昇り夜が明けたとき、平静を保っていられるか、その自信はなかった。今ですら気が狂いそうになるのを必死になって堪えている。三年もの間自分と共に戦ってきた人間が地に崩れ落ちていくのを見るたびに、胸の奥が騒めきたった。絶叫の衝動を押さえ込み、奥歯を噛み締めた。 耐えなければならない。正気を手放すことは、自分には絶対に許されない。ヴィゼルと共にジグルの未来を見るのだ。自分も、皆も。そのヴィゼルを導くのは我ら。ヴィゼルの元に皆を導くのは自分。なすべきことは、己れの手で未来へと続く道を切り開くこと。 「――カリーナ様!」 そんな時、先陣を切っていたゲルヌが馬を止めた。彼の横に並びゲルヌが指し示す前方に視線を走らせ目を凝らす。細い道の向こう、数個の松明。アーベン軍。 「伏兵か」 「いかがなさいます」 「――無論。なすべきことは一つ」 少し歩み出る。自分たちを待ち構えていた敵兵は、じっと様子をうかがっている。 「我はジグル軍の将カリーナ。我らは軍の精鋭部隊。先を急ぐ。無用な戦いは好まぬ。退かれよ!」 声が闇に溶けると、反射するかのごとく返ってくる声があった。退かぬ、の返事。 カリーナは手の槍を突き上げると、アーベン軍向かって振り下ろした。 鋭い切っ先が、敵を狙う。 「自らの道は己れの手で切り開け。突撃ー!」 「突撃ー!」 カリーナのかけ声にゲルヌが続いた。それを合図にカリーナ隊はアーベン軍に突進していく。アーベン軍も、ジグル軍の動きを見てすぐに兵を走らせた。 ジグルの騎馬とアーベンの歩兵が激しくぶつかり合う。カリーナ隊はおよそ三十騎。アーベン兵はおよそ百人。アーベン軍の歩兵は暗闇に乗じて馬の足元に歩み寄り馬に斬りかかり、兵が地に落ちるところを待ち構えた。ジグル軍の騎馬は絶え間なく馬を動かしつつ、歩兵の頭上から槍や剣を向けるが、絶対数が違いすぎた。カリーナは自身も刃を交えながら、次々と馬上から兵が落ちていくのを目にした。目の前の敵にかまうではなく、馬を走らせ早々にムルドゥ軍と合流するのが先決と声を張り上げるが、聞こえないのかなすことが無理なのか、アーベンの包囲網を突破した者は見受けられず、数は減り続けた。 しかし、残った十五騎ばかりは長時間にわたってアーベンの攻略に耐えた。徐々にではあるが着実にアーベンの兵の数も減らしていった。歩兵数が五十を切った頃、ジグル軍の兵たちは体にいくつもの傷を負っていた。肩に矢が刺さったままの者もいれば足の筋を断ち切られた者もいた。カリーナも右腕に大きく弧を描くような傷を負い、血が槍の柄を通って地面に滴っていた。それでも、彼らの双眸はぎらついていた。温かい血潮に餓えた獣のように、土を蹴り上げる敵兵を見付けては刃を突き付けた。 「進めー! なんとしてでも進めー!」 カリーナは声を上げる。応えるかのように兵の低く唸る声がする。が、その反応も次第に弱くなる。体力の消耗が著しいのだ。馬も人も、限界は見えていた。気力だけでは生き残れない、カリーナにそんな思いが過ぎる。諦めるな、とすぐに思いなおす。もう駄目だという思いを、今まで散っていった仲間の顔を思い浮べることで払拭しようとする。諦めるな、諦めてはいけない。仲間の無念さを知れ、敗北の悔しさを知れ。カリーナは耐える。それでも、カリーナ隊の体力の消失は目に見えて明らかで、退却も時間の問題かと思われた。 ――そんな折に、思いもよらないところから援護はやってきたのだ。 ジグル軍の進行方向、つまりは、アーベン軍の背後から。戦火の届いていないはずのところからの絶叫を耳にし、皆一斉に視線を向けた。そして誰もがその姿を目のあたりにした。胸部から血潮を吹き上げ地に落ちていくのは、アーベン軍歩兵隊の隊長とおぼしき人物。その場にいた全員が見守る中、崩れる彼の体の陰から現れたのは、傭兵二人。右頬の、傷。 「――ザイン!」 彼は大剣に張りついた血を振り払うと不敵に笑った。唖然とするより先に、彼はカリーナ向かって怒鳴り付けるのだ。 「さっさと行け! ここは俺たちで押さえてみせる!」 「しかし――!」 「ムルドゥ軍には傭兵隊が援軍として駆けつけたよ。ムルドゥ軍が道を開くのも時間の問題だ。だから、早くしないとカリーナ隊だけ置いていかれてしまうよ!」 情報はザインの隣にいた傭兵からのもの。とっさに彼の弟分というものだと分かった。 そう。ザインが、あの男が、今ここにいる。自分の窮地を察したかのようにそこにいる。自分に手を差し伸べようとしている。十三夜の宵に告げたとおり、自分の命をなげうとうとしている。 「――――」 カリーナは手綱を引いた。ザインを見た。両眼に宿った光は困惑だったはず。とっさに最善の判断を下せず、救いを求めるかのように彼を見つめるしかなかった。 ザインは眉間に皺を寄せ、睨み返してくる。「約束だろうが。お前にはやるべきことが他にあるはずだ。だからさっさといけ!」 「――――」 その言葉に背を押された。カリーナは槍を左手に持ちなおした。血に塗れた右手には手綱をきつく巻き付けた。 再びカリーナは槍を振り上げる。切っ先を向けるは、道の向こう。 そして彼女は、皆に告げる。 「――カリーナ隊、進軍ー!」 敵兵の隙をつき、ただ前だけを見据えて、カリーナはザインの脇を駆け抜ける――。 |