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四.宴
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月を、見上げる。 十三夜の月。 薄雲のかかったその明かりを顔面に浴び、コルダは一人、開け放たれた窓際にいた。 ここは、山の中、森の奥。小さな集落。 物心のついた時より、この地の土の匂いをかぎ、川水で喉を潤し、風と森の音を聞いた。大人が年老いていき、新しい命が誕生し、また、自分が齢を重ねても、ここがここであることは、何一つ揺らぎはしなかった。 些細な変化は、日常的に起こっても。 大地は、そこにある。風は、吹きすさぶ。花はしおれ、散っていったとしても、定められた時には間違うことなく姿を現す。 月も、また。 日をおうごとに移ろいゆく姿。されど、我らの希望を裏切って、優美な姿を全く消し去ってしまうことはない。 求めれば、必ずそこにある。 揺らぎ揺らめきながらも、約束は違えない、違えてはならない、絶対に。 それが、運命だから。 ――お願い、私を連れて逃げて――。 「――――」 懇願する彼女の顔が脳裏に浮かんだ。木々がざわめく森の中の情景。 虚ろに床をなでていただけの双眸をきつく閉じた。下唇をかみ締めた。 いいようのない憤りが、心を圧迫した。 ――あなたは御自分の立場をお忘れか――。 そう、コルダは返した。彼女はそれを否定した。嘘だ、と。あなたはそれを知っているではないか、と。 コルダは何も知らないと、自分が知っているのはあなたがどのような人であらせられるかということだけだと、そう告げ、足早に彼女の前から去った。去るしかなかった。迷いは破滅を生むことを直感したから。コルダは、去ったのだ。 「……私は、何も知らない……」 彼女は自分に何をしろというのだろう。皆を、子供たちを、運命を裏切れというのか。 大体、自分には何一つ出来ない。足が悪く、徴兵からはずされるぐらいに、戦うことは望めない。逃げることすら出来ない。 なのに。 なぜ。 自分は、何一つ為せないというのに――。 「ほら、また一人、月の虜になったよ」 不意に、まだ幼い、かわいらしい少女の声がしたので、コルダは徐に視線を向けた。直角に曲がる廊下の角の向こう側から、小さな足音が聞こえてくる。 「違うよ。月が呼んだのさ、寂しいからそば来てって」 もう一つ、違った声。少年のものだ。 夜の静寂の中、声を潜めつつも言葉を交わす二人の会話に、コルダは知らず知らずのうちに耳をそばだてていた。 「そうじゃないよう。月はとっても綺麗でしょ? 見ていたら、ずっと見ていたくなるでしょ? 独り占めしたくなるでしょ? だから、引き寄せられてきちゃったんだよ」 「別に、綺麗だからって独り占めしたいなんて思わないよ」 「思うもん」 「思わないね。それにそうじゃなくって、月は寂しいのさ。だって、一人ぼっちで空にいなきゃいけないでしょ? 太陽みたく、鳥が遊びにきてくれることもないんだよ。真っ暗闇の夜の間、ずっと一人でいなきゃなんないのさ。だから寂しくなって、友達を呼んだのさ」 「ちがうもん。月のそばにはたくさん星がいるもん」 「そばにいても、星は友達じゃないんだよ」 「どうして」 「みんな、輝いているだろ。星は、月に負けないようにって、必死になって輝いているんだ。だから、友達なんかにはなれやしないのさ」 「……でもそれって、なんだかかわいそう。せっかくあんなにもそばにいてくれるのに、友達じゃないなんて」 「だから、月は新しい友達を呼んだのさ――」 幼い恋人達は、コルダの前に姿をあらわす。二人は親代わりの青年の姿を見つけて、それぞれに「あ」と声を出した。歩みを止め、不安げにじっと顔を見上げた。 そんな二人に、コルダは微笑む。 「どうしたんだ、二人とも。もう寝ている時間じゃないか」 夜は更けていた。他の子供たちは皆、すでに床に就き、まどろみの中に意識をたゆたわせているはずだ。 少女は少年の夜着の裾を握り、小さな体を彼の背に隠すようにした。少年は仁王立ちになったまま、コルダから決して視線をはずそうとはしなかった。 「ネイが眠れないっていうから、今まで一緒にいてやったんだ」 意志のこもった声。コルダは優しく返す。 「ネイはオビタを起こしにいったのかい?」 「違うよ。僕も眠れなくって、部屋から出ていたんだ。そこにネイが来たから、院の中、ぐるぐる一緒に歩いていたんだ」 「月が、綺麗だったの」 慌てたように少女は声を発した。僅かに少年は自分の背後に隠れる少女を振り返ったが、少女はかまわず言葉を続けた。 「だから私たち、歩いていたの。そうしたら、月に雲がかかったの。どうして月に雲がかかるのかっていう話をしたの」 このような時間に床に就いていない自分達を叱るのではないか――彼らの瞳には、おびえる色が濃く浮き出ていた。確かに、コルダは二人を叱る立場にあった。そして、叱らなければならなかった。子供は床に就いていなければならない時間のはずだ、例え眠れなくても、横になっていなければならない、今は戦争中だ、何があってもおかしくない、特に、だから、と――。 「わかった。早く部屋に戻りなさい」 到底コルダには二人を叱る気になどなれなかった。コルダは二人を解放した。二人は足早にそれぞれの部屋に戻っていった。 そんな幼い恋人達の背を、ずっと見送った。彼らの小さな背後に、幼かった自分を重ねて見た。ヴィゼルと共にいた自分。 小さなころからヴィゼルはとても美しい娘だった。貧しかったので、子供とはいえ四六時中働いていた。肌はいつも汚れ、髪もぼさぼさであったが、湯浴みをした後のヴィゼルは、見違えて輝いていた。 そんな彼女の横に、いつも自分はいた。ずっとこのまま、どれだけ時が経とうとも、一緒にいることができるのだと、ヴィゼルと共に信じて疑わなかったあの頃。夢が美しい夢のままであったあの日。 考えてもみなかった運命が降りかかってきたのは、十年前だ。当時の最高位将軍、ニトゥカが、突然集落に姿を現し、ヴィゼルを連れて行った。そして、程なくして彼が再びやってきたと思ったときには、ヴィゼルはすでに、きらびやかな輿の中にいた。 ――【月の印】が、あらせられた――。 ひれ伏すしかなかった。伝説が目の前で現実になったと、皆が皆、畏まった。 これより【月の印を抱く者】にはジグルを未来に導いてもらうため、政府にお連れする、という将軍を、誰一人として止めることは出来なかった。 そう、自分も。 去っていく彼女を呼び止めることなど出来なかった。どうして、と、声をあげることは出来なかった。未来を導くという彼女に、望みをかけることしか出来なかった。 そう、それしか出来なかった。 ジグルの未来、革新。求め、望み、祈ることしか。 この自分に、それ以外の一体何が出来たであろう。 何が成せたであろう。 満足に走ることすら出来ない自分に、体を張って戦うことすら出来ない自分に、運命など動かせるものか。 ただ、自分は待つしかないというのに。輝かしい未来が訪れる日を祈っているしかないというのに。 変革を――未来を――希望を――。 ――誰にだって突飛な行動に出たくなる時はある――。 ――それが人間というものなのだろうよ――。 「……人間……」 よみがえる、女将軍の声。 自ずと、声は漏れ出でていた。 不意に、それまでは思いつきもしなかった疑問が頭をもたげた。 コルダは顔を上げた。深く息をついた。 熱を帯びる双眸を、かたく閉じた。 「……人……ならば……」 時には突飛な行動にでることがあるのが、人ならば。 女将軍のように、女でありつつ男の衣装を纏い、戦う。 そんな衝動が、人を突き動かし、事を成させるのならば。 ならば、ならば自分は、――自分は、いつ、その時を迎える? 自分ができるのは、早朝に川に赴くことだけか――? ――逃げられないというのなら―― ――ならばいっそのこと―― ――あなたの手で―― ――私を――! 変革とは何だ? 革新とは何だ? 希望とは何だ? 未来とは何だ? 独立を、ジグルは夢見る。 自分も、待ち望んだ。 【月の印を抱く者】が指し示す未来。 それを、切に願ったはずだ、求めたはずだ。 なぜ? なぜ、ならば――。 そこには、望んだものがあるから。 手にしたい未来が待っているから。 それを、確信していたから。 だから、自分は、そして皆も、独立を願った。 ジグルの、未来を。 ――けれど――しかし。 伏せていた双眸を開き、天を見る。 濃紺の夜空に浮かぶ月。 あまりにも明るい、その光。 周囲の星々を翳らせる、冴え冴えとした月光の下。 コルダの目には、何も映らない。 今は、何も見えない。 見えていたはずなのに。 その目で捕らえていたはずなのに。 闇の中に浮かび上がる、輝かしい光。 未来。 それが、今はどこにあるのか、わからない。 わからない――いや、それは本当に、今になってのことなのか? 以前なら、見えていたというのか? はっきりと、その視線の先にあったというのか? 本当に、紛うことなく――? 見えて、いたのか? 光、求めた光。 願った、光。 願う? 何を? 何を願う? 何を求める? 何を祈る? 自分が望むものとは、一体何だというのだ――? 離れた地で行われている、十三夜の宴。 明後日、ジグルは運命と、向き合う。 その時自分は、どのような運命と出会うのか。 運命を、受け入れることができるのか。 果たして自分は、望むべき物を、手にすることができるのか。 望むべき、物を――。 「――ヴィゼル……僕達の未来は、どこに――」 コルダは静寂の中、月光を浴びる。 |