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四.宴
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遠く離れた山々の端から、月明かりが洩れている。 あの月が中天に差しかる頃、宴は始まりを告げる。 十三夜の宴。 風で、篝火が揺れる。 「本当によろしいのですか、カリーナ様。お父上の形見など、それほど大切なものになさらなくてもよいと思いますが」 一歩下がったところで付いてくる、腹心ゲルヌの言。 「何を言うか。大切なものだからこそ月に奉納する。それに、私には最早あの首飾りぐらいしか大したものは残っていないしな」 「とは申されましても」 「構わんのだよ。それでジグルの悲願が達成されるとあれば本望だ。そうだろう、ゲルヌ」 「御意」 正規軍駐屯地の中を、ゲルヌを伴ってカリーナは歩く。すれ違う者たちは皆どこか浮き足立ち、落ち着かない。全ては宴と、明後日に控えた出陣の所為。準備に追われ忙しく動いている。そこでじっと佇んでいるのは、各天幕の見張りをする者たちだけだ。が、彼らの胸中も決して穏やかではないだろう。 肌の感覚を奪い去る突風が吹き抜けていった。外套は大きくはためき、ぞんざいに肩にかけてあった襟巻は飛び去りそうになる。とっさにそれを皮手袋をした手で押さえる。 紅色の篝火の炎は、大きく揺れている。 「カリーナ将軍」 炎の残像の向こう側から呼び止められて、足を止めた。将軍ダウバが供を伴い寄ってきていた。カリーナとゲルヌは恭しく会釈。 「見回りからのお帰りか。どうだ、状況は」 「何事もなく、木々を鳴らすのは宵の風のみです」 「痺れるほどの北風だ。憎々しいな。祭壇の方へは参られたか」 祭壇、宴の行なわれる現地。 「はい」 「準備の方はいかに」 「とどこおりなく進んでおります」 「そなたの部下たちはどうか」 「いつもと変わらず、誠心誠意任についております」 「そうか。そなたの麾下の者たちは、皆年若く未来ある者が多数。彼らの成長を私は楽しみにしている」 「は」 「そなたも、もちろんのこと。……将軍よ、我らの頭上に月があることを忘れなさるな。皆が宴のため腑抜けになろうとも、我らの罪を月は見逃さぬ」 「は――」 「期待している」 「は」 「警護に参る」 供の者に告げて、将軍ダウバは去る。 彼はニトゥカ将軍亡き今、正規軍の実質的な長。現将軍の中の最年長でもあり、規律に厳しくはあるが、包容力と物事を冷静に見つめられる目と武人としての気高さを兼ね備えているために、民全体からの人望も厚い。カリーナにこうして将軍の地位が与えられたのも彼の存在があってのことだ。 その彼の言葉。ゲルヌが首を捻る。 「一体どういうことでしょう」 ダウバの背を見送った後、「さあな」とだけ口にして踵を返した。自分の天幕に向かう。 天幕の前には衛兵が一人。見慣れた顔だ。ゲルヌを伴って中に入ろうとした時、その彼の口から白い息が洩れ出た。それを目ざとく見つけ、カリーナは彼に視線を固定する。声をかけるが、彼は何も言わない。それ以上追求することもなく、中に入る。 ――と、異変に気付く。天幕の奥を見据える。 「では、奉納する首飾りを祭司様に届け次第、私も準備を整えて……カリーナ様?」 入ってすぐの所で突然歩みを止めたカリーナの背にゲルヌの声。カリーナは軽く振り返り、「ああ」と言うと奥に進む。ゲルヌも足を踏み入れる。 「おや、明かりがついている――」 その異変にゲルヌも気付き、とっさに口を閉ざした。後ろ手で天幕の布をぴっちりと閉じた。だが、それ以上は特に何も口にしようとはしない。 カリーナは何事もなかったかのように衣装箱の中から首飾りの入った木箱を取り出した。それを手にゲルヌに歩み寄る。渡す。 「よろしく頼むぞ」 表情をかたくしながら、ゲルヌもいつもの通りに振る舞おうとする。 「はい、カリーナ様。では、宴の準備の程をお願いします。開始前に頃合を見計らってお迎えにうかがいます」 「少し早めに頼む。宴が始まる前に警備の最終確認をしておきたい。それと、祭壇の警護に当たっている部下たちに、私が行く前にもう一度確認をしておけと伝えろ」 「御意」 そうして、彼は退出しようとした――が、天幕に手をかけたところで止まった。間を置くと、強ばった面持ちで振り返る。改まった、震える声。 「カリーナ様――」 彼の眼差しも、不安定に揺れる。 「私の思いも、ダウバ将軍のものと同じです。私も、こんな所でカリーナ将軍に躓いてほしくはありません。私は、あなた様の片腕として、ジグルの未来を築いていきたいのです」 彼が何を危惧しこんなことを口にするのか、なぜこんなことをダウバ将軍のみならず彼までもが口にしなければならないのか、痛いほどにカリーナには分かっていた。 天幕の奥に目を向ける。そこにいる彼を見つめると、奴は肩を竦めてみせた。だからカリーナは嘆息する。ゲルヌに視線を戻すと、まだ年若い彼の真剣な眼差しにぶつかる。 逃げられない、逃げもしない。その必要はない。ただ、彼の熱意と同じだけの決意を秘める。 こんなことで、自分は失脚などしない。 「あやつはただの友人だ」 「友人……?」 「案ずるな。気紛にすぎん。私の未来はヴィゼル様と共にある。それを一番よく知っているのは、お前ではなかったのか」 「――他言は致しません。衛兵にも言い付けます。私は、カリーナ様が道を違えなければ、それでいい 「私の行く先は月の示す地だ。そして私は、お前が傍らにいてくれるものと信じている」 「仰せのままに――」 ゲルヌが去る。 声というものがなくなった天幕は、叩きつける風の音に支配される。一瞬凪ぐと、ランプの揺らめきに視覚が奪われる。天幕に映りこんだ揺れる人影は二つ。 と、背後で大きな溜め息がした。振り返りその姿を確認し、カリーナも息をつく。 「真正面から切り込んでくるとは大したものだ。お前の目的は私を失脚させることか? だったらさっさとやめることだな。こんな手で陥れられるほど私はひ弱ではない」 抑揚のない口調で言ってやると、奴はどこか呆れたようだった。顔に薄く笑みなどを浮かべる。 「いい推理だ。当たってはいないがな。真正面から来たのは他に方法がなく、どうせ皆浮き足立っていて気にはしないだろうという判断からだ。火を燈さないと寒すぎるというのはあったが……何せお前の傍にはいつも奴がいる――そうか。奴がゲルヌか。血気盛んな若造だ。大切にしてやることだ。お前に心底惚れている」 「それは違う。あいつが惚れているのはヴィゼル様だ」 「一辺倒な考え方だな。それはお前の希望じゃないのか?」 「間違いない。あいつは自分からそう言って私の元に来た」 「奴を腹心に据えたのはいつのことなんだ?」 「決めたのは三年ほど前か。成人式直前の闘技大会で優勝したのがきっかけだ。正式に武人として私の元に来たのは二年前だ。それがどうした?」 「いや。三年の月日だ。それが揺れ動く男心にどう影響したかと思ってな」 意味不明な彼の――ザインの言葉を無視して、カリーナは襟巻と皮手袋と外套を取る。それらをまとめて寝台の上に放り投げると、再び衣装箱に近付いてく。開けて中から丁寧に取り出すのは、式典用の衣装。もちろん様式は男のものだ。これからこれに着替え身形を整える。将軍級の者たちは、全員今夜の宴に列席せねばならない。 「それで今度は何の用なんだ?」 取り出した衣装を衣装箱の蓋の上に置きながらそう尋ねた。ザインは寝台の脇、カリーナのちょうど背中側にいる。 「いい酒が手に入った。いける口だろう?」 「酒盛りだと? お前は今宵がどのような時か知ってて言っているのか?」 語気を荒げ振り返る。前方でザインが酒瓶を顔の前に掲げていた。それを目にし、カリーナは途端言葉を失ってしまった。目を疑い何度か瞬いてみるが、現実はそう容易く覆されそうにもなかった。ゆっくりと口を開く。 「お前、それをどうしたんだ?」 「俺じゃないさ。弟分の手癖が悪くてな」 益々返す言葉はない。唖然として突っ立っていると、ザインも異変に気付いたのか問い返してきた。カリーナは告げる。 「私たちの酒だ」 「何?」 「正規軍の将に振る舞われる予定の銘柄だ。どうしてそう簡単に盗まれる? 宴用の食事も酒も、厳重に保管されているはずだぞ」 カリーナが頭を抱えたくなった理由はそこだった。酒が一本なくなったとしてもどうということはないが、盗まれたとなると別である。警備の杜撰さが見えてくるようだ。が、ザインはカリーナの話を聞いて笑いだした。彼は言う。 「安心しろ。おそらく警備の問題じゃない。これがそんな代物ならば俺の弟分の人脈と口のうまさの勝利だろう。一本分けてもらったというのが正しいんだな。しかしだったらお前が口にするのは筋じゃないか。気後れすることはない」 彼の言葉を聞いていると、本当に頭痛がするようだった。筋でも気後れしないことでもない。問題はそうじゃない。 「これから宴がある。どうせ酒ならそこで飲める。傭兵隊にも振る舞われるはずだ」 「だが底無し連中を満足させるほどのものじゃないだろう? それに、こんな上等な酒はまず回ってこない」 「大体、宴が始まる前に酒の匂いをさせている奴がいるか」 「傭兵たちはみんなそうさ」 「私は違う」 「そう言うなよ。寂しいじゃないか」 「私にはお前の寂しさを紛らわしてやっている暇はない」 「そのきれいな髪を梳く手伝いぐらいならしてやろう」 「余計な世話だ」 「それに上等な酒だぞ。将の末席に位置するお前にどれだけ回ってくるというんだ?」 「そんなことには拘らない」 「少しは拘ってみろ。瓶を一見しただけで銘柄が分かったお前だ。酒はよほど好きなんだろう?」 「だからって――」 「それに、今夜の酒が人生最後の酒になってもおかしくはない」 言い放つザインのその言葉に小さな痛みを感じた。瞬間言葉に窮する。酒に目を落とす彼を見つめる。 「それはお前も俺もだ」 「……座れ」 顎で天幕の隅に寄せられていた一対のテーブルと椅子を示した。軽く肩を竦めると、ザインはそれに寄っていく。それらを中程に移動させて腰を落ち着かせた。 酒瓶はテーブルの上。 「一杯だけ付き合ってやる。それで失せろ」 「つれないな」 「嫌なら今すぐ失せろ。先程も言ったが、私はそれほど暇じゃない」 「十三夜の宴、か。見ものだよな」 「なぜお前が見物できる?」 「それは内緒だ。それより、グラスを二つくれないか」 衣装箱の隣にある小さな引き戸の棚の中から不透明なグラスを取り出すと、一つずつ投げて渡した。カリーナは棚に寄りかかった状態でザインに向き直り立ったまま。それを見てザインはもう一度肩を竦めた。何も口にはせず、グラスを二つ机の上に並べると酒瓶の栓をぬく。透き通った黄褐色の酒がなみなみと注がれる。芳醇な香が広がっていく。 「いい香だ。明かりが暗すぎて色がよく分からんのが残念だが、想像するに澄んだいい色をしているんだろうな。――うん。いい味だ。結構強い酒だな。そう量をやるものではないのか。まあいい。そら、お前も引っかけろよ」 グラスを机に滑らせ端に置いた。取りに来いということらしい。そのグラスから視線を外し、ごくりと彼は酒を飲む。 カリーナは徐に机に寄っていく。グラスを手にするとまた離れる。同じ位置まで戻り、棚に寄りかかる。その一部始終をザインは見つめていたが、やはり何も言いはしない。カリーナが慎重に一口酒を口に含むのを見て、かすかに笑ってみせるだけだった。 「もっと豪快にいけよ。いつもそんなにたらたらと飲んでいるのか?」 「飲み方をお前に指図される覚えはない」 「そうかもしれんがな。お前はいつも誰と飲んでいるんだ? さっきの若造か」 「いつも一人だ。うるさい酒は好かん」 「だろうな。あの若造じゃあお前の手足にはなっても話相手にはなりそうにもない」 「そんなことはない。あいつには鋭い洞察力と突拍子もないことを思いつける頭がある」 「なるほど。お前が奴を手元に置く理由はそれか。しかし、俺にはひどく頭が固そうに見える。あんな奴と飲んでも俺はおもしろくないだろう。一体あいつはどういう出なんだ?大方、代々武将の家柄か」 「そうだ」 「純血種というわけか。自身の出世欲がない分、異端だな。まあ、そういう点では観察していておもしろい存在であるかもしれん」 話の合間合間にザインは酒をぐっとあおった。一杯目が空になるとすかさず次を注いだ。お前もどんどん飲めと強く目で訴えかけてくるので、カリーナも口をグラスに付ける。確かにこの酒はうまい。 「おもしろい存在といえば、俺のそばにも一人いる。こいつをくすねてきた奴だ」 そう言って、彼は爪で酒瓶を軽く弾く。 「弟分とか言ったか」 「そうだ。剣を教えてやったから弟子でもある可愛い弟分だ。そう、可愛い顔をしている。男のくせに、だ。お前は男女だと言ってやったらカリーナと同じだとぬかしやがった」 「冗談じゃないな」 「俺もそう言ったさ。だが、あいつの一番おもしろいところはそんな所じゃない。おもしろいのはあいつの過去だ」 「過去?」 「元盗人。腕利きだった。情報収拾能力も高い。素早く間違いのない情報を仕入れてくる。俺をジグルに呼んだのもあいつだし、今夜の宴の見物席を設けてくれるのもあいつだ。安心しろ。警備に迷惑はかけん。その辺もあいつは話をつけて問題のないようにしている」 「なるほど。禊の時、お前が飛び出してこれたのはそのためか。そういえばもう一人、小柄な男がいたな」 「そうだ。共にいて飽きない、信用できるおもしろい男さ」 もう一杯、ザインはグラスを開けた。飲みっぷりは気持ちがいいほどに豪快だ。傭兵などをやる荒くれ者たちは皆そうなのだろう。酒がなければやっていられないといった体だ。 まあ、いつもの自分と大して変わりのないことか、と、カリーナも酒をあおる。焼けるような感覚が腹に向かって降下していく。体がほのかに熱を帯びる。 それを見て、ザインは笑いながら三度自分のグラスに酒を注いだ。グラスの中で酒がはね、水滴がいくつか飛び出してくる。 「そういうお前はどこの出身なんだ? どういう幼少を過ごしたんだ? そう言えば、武人になる前は何をしていたんだ?」 立て続けに繰り出される質問。ザインは酒瓶の栓をしめなおしている。カリーナは視線を脇にそらせる。 「そんなことを聞いてどうする? つまらん話だ」 「最初に言ったはずだ。俺はお前に興味がある。興味のある相手のことをよく知りたいと思うのは当たり前の心情だろう。それに、つまらないかそうでないかは俺が判断する」 「つまらんさ。お前が判断を下すまでもない」 「……なるほどな。つまらんか」 ザインは一気にグラスを空ける。せっかく閉めたという栓を抜き、また酒を注ぐ。今度は一口だけ口にするとグラスを置いた。片肘を机に付くと、人差し指を一本立てる。カリーナを見る。 「俺の過去もつまらんものだ。いいか、俺は海辺の村に生まれた。村の男たちは漁をし、女たちは捕ってきた魚を開いて干してそれを町に売りにいく。俺はガキの頃、そんな村の大将だった。何でも一番じゃないと気が済まなくてな、体の大きさも食事の量も喧嘩も女を覚えたのも一番だった。だけどな、ある日俺は親父と喧嘩した。俺は負けてそれが悔しくて村を飛び出した。町に行って勝手に相手を見付けては喧嘩ばかりを繰り返した。そのうちその町では誰も相手にしてくれないようになった。だから俺は、旅の奴から聞かされた剣豪に弟子入りしようとその町も出た。そこにいたのは飲んだくれのじじいだった。俺はそいつに剣を教わった。傭兵という道も教わった。それから俺は傭兵を肩書きにするようになった」 立てていた人差し指を下ろすと、それでそのままグラスを捉えた。ぐっと飲み干す。口端から溢れ出た酒を手の甲で拭う。また注いで、口を開く。 「さあ、これが俺の過去だ。話したぞ。だからお前の話もしろ」 予測された展開だった。こんな取引には応じる必然性がないと突っぱねることも可能だったが、やめた。後でしつこくされるのは億劫だ。カリーナもグラスの酒を空けると語りだす。 「私の出身は鉱脈の膝元の集落だ。ここよりもずっと奥まった北にある。男は山に入り鉄を掘り出し、女は外でその手伝い。皆そうだった。私の親父以外はな。私の親父は保安官だった。【月の印を抱く者】の出現を夢いていた変わった男さ。だからあの集落からここに来ている者はほとんどいない。皆、今でも山を掘っている。徴兵もかかっていない。土地的にはジグルの隅でもジグルの貴重な財政源だからな」 「なるほど。それで?」 「以上だ」 「何?」 「これ以上話すことは何もない。必要もない」 「必要もない、か。……酒、もう一杯いくだろう?」 「一杯だけだといったはずだ」 「まだ時間はある」 「お前が決めるな」 「決めるさ。酒はまだ残っている。注いでやる。そら、グラスをよこせ」 ザインは瓶を振って音をたててみせる。残りはあまり多そうではない。鼻を擽った独特のかぐわしい香を思い出す。早く酒が捌ければそれだけ早く去るかもしれない。そう思い、彼に向かってグラスを投げる。ザインは二つのグラスに酒を注いだ。最後の一滴が瓶から落ちる。 「最後の酒だ。これが空になったら俺の用事も済むことだろう」 言って、彼はまたグラスを机の端に置く。自分のグラスに口を付け、傾ける。 暫らく考えた後、カリーナはゆっくりと机に寄っていった。最後の酒。違うな。自分にはすぐ後でまた同じ代物が振る舞われる。だが、本当にうまい酒だった。宴の席上で出てくるだけだとしたら、大して味わう間もなくなくなっていただろう。その猶予を与えられたということか。そういうことにしておこう。とりあえず、用意を整えなければ宴に出席することもかなわない。まずは現状の打破だ。 カリーナは机の傍まで歩みグラスを見た。不透明なガラスに黄褐色の液体。ランプの明かりのせいか、覗むと色が揺れたような気がした。ザインが見守る中、グラスに向かって手を伸ばす。 と、グラスをとらえる矢先に耳に届く、彼の声。 「――今日、お前の昔の話を耳にしたんだ」 ぴくり、と動く指先に弾かれ、グラスが横転した。流れ出す液体。それを認めて徐にカリーナはグラスを掴み上げた。流れを止める。 「十二年前、故郷にいた頃のお前の話だ。愛していた男を失ったと、そう聞いた」 ザインを見た。彼の視線は僅かにカリーナを捉え、そして机の表面を撫でた。それ以上自分に視線を向けようとする気配はない。 こいつは知っているのだ。知って自分に会いにきたのだ。それをカリーナは悟る。 心が震える。奥の方が痛い程に熱い。 グラスを片手にその場を離れた。寝台に向かって足を止める。底に薄くあった酒を喉に流し込み、力なく腕を脇に下ろす。背を向けたまま発する、掠れた声。苦しい。 「……もったいぶらなくていい。最早全てを知っているんだろう?」 ザインは、沈黙。 「なるほど。それを確かめにきたのか。確かめて、私を哀れみにきたのか」 「そうじゃない――」 とっさに答えるザインをカリーナは最早振り返れない。彼の驚きが、背を向けていながらもひしと伝わってくるから――。 カリーナは、悶える胸の内を押さえ付けて、自分の口から事実を告げるのだ。 「そうだ。十二年前、私は一人の男を失ったんだ」 一瞬の静寂。 その後に響く、カリーナの声。 「あのとき――集落の男達は、皆、山に入った。盗賊が出たんだ。私たちが掘った鉄を盗む、あくどい賊だった。あの男も山に入った。そして、死んだ」 「その時、お前は?」 「集落に残っていたさ。女子供は皆、集落にいた。いなければならなかった。付いて、行きたくても――」 口にしていくたびに、過去の封印は解かれ、カリーナの内に広がっていく。まざまざとよみがえる情景に、再び、悔恨も、悲しみも呼び起こされる。 「悔しかった。女であることが、口惜しかった」 だから、カリーナはわざと言葉にした。そうして自分の感情に歯止めをかける。心は何も恐れていないと、それを確認する。 「だからお前は男の格好をしているのか? 男になりたくて?」 男の問い。 「男になろうとは思わん。男は力で全てを支配できると思っている。だから男は嫌いだ。けれどそれより私は、無力な女であることに嫌悪した。女であることが恐怖で、何よりも悔しかった、悔しくてたまらなかった。……あの男に付いていけない自分がいて、分かったんだよ。自分がいかに無力であるか、自分がいかに何も出来ない存在であるか」 「それが許せなかったと?」 「そうだ」 「だからお前は女を捨て、武人になったと?」 「そうだ」 「だからお前は、男の衣装をまとい、剣を手に戦うのだと?」 「そうだ」 「…………」 「――私は戦う。戦って、勝利し、ジグルの独立を成し遂げ、ヴィゼル様のめざす未来を実現させる」 未来の実現……それが、夢。 「革新、変革、希望、未来――しかしそれを実現させても、お前は女に戻らない、と?」 「そうだ」 「――それは、恐怖なのか?」 その、問い。答える。 「そうかもしれん。否、違う。私が私であるためには、女であってはいけないんだ」 「…………」 「だから私は、もう女には戻らんのだよ」 言葉が響き、そして消えた。 天幕を叩く風の音。 寝台に落ちる深い影を見つめ、グラスをきつく握り締める。 冷えた空気が微妙な静寂を漂わせ、息を詰まらせる。 不意に、背後から投げかけられる、最後の問い。 「――だったら、お前はどうして髪をのばしているんだ?」 カリーナはゆっくりと顔を上げ前方を見た。彼女が答えるより早く、彼は言葉を続ける。 「微力な女でいることに嫌悪を覚え、男の服を着、体を鍛え強くなり、社会的地位まで築きあげた。……そう。お前は過去の自分と違う自分になろうとした」 カリーナは、ザインの言葉に動かない。 広まっていく、彼の声。 「だが、たった一つ、その美しい髪だけは別だ。その髪がそのように長くなければ、遠く崖の上を行くお前を女だとは思わなかった」 カリーナは僅かに振り返る。目の端で淡く浮き上がるザインを捉える。 自分に視線を向けるザインをそうして見る。 「どんなに努力をしても、私の肉体は女のものだ」 「そんな理由か? 精神的外傷(トラウマ)から逃れるべく性を超越しようとしたお前が?」 眼球だけを動かす。冷えきった天幕の隅。 口の中が乾く。 胸部に響く鼓動が痛い。 「――お前は、待っているのだろう?」 彼の言葉が耳に入ってきた時、カリーナは体を動かしていた。見開いた双眸でザインを見た。グラスをより強く、強く握り締める。 「……お前は、何を――」 「そうじゃないのか? 髪を切らずにいるのは……未だに男を待っているからじゃないのか?」 「馬鹿な。奴はすでに――」 「生きているか死んでいるか、それが問題なんじゃない。お前はその男に認められたいんだ。認められて、共にいることを――」 「違う!」 全身を駆け抜けていく憤り。 反射的に激昂した。 身体全体が震える。 心をかき乱していく男に対しての、どうしようもない苛立ちで、平静を保てない。眩暈を感じる。 「否定しても無駄さ。現実のお前が如実に語ってくれている。お前の本心は、女に戻りたがっているのだと」 「何を……馬鹿なことを!」 言葉を吐き捨てても拭い去れない焦燥感。心が蝕まれていくのが手にとって分かる。忌ま忌ましくて、気持ち悪い。 「本当はお前は、男に迎えにきてほしいのだろう? そばにいてもいいと、その言葉を待っているんだろう?」 「違うと言っている!」 否定しなければならない。認めてはならない。絶対にこの一線だけは守り通さなければならない。そうカリーナの全てのものは告げる。他の何物をも受け付けてはならないと。 「本当は、女としての自分を一番に認めてほしいのだろう?」 「違うと――!」 これ以上、口にさせてはならないと。 「お前の望む変革は、お前が女に戻ることによって成し遂げられるのだろう?」 「違うっ!」 甲高い悲鳴が響いた。 ランプの明かりを受けて粉々に煌めくガラス。それがザインの足元で宙を舞い、落ちた。 苦しい。息が苦しい。 ザインは甘えを許さない眼差しでそこに座っている。カリーナは空になった手をきつく握り締め、そんな男を睨み付ける――。 「私は女になどなりたくない! 無力で何も出来ない女などにはなりたくない! いらぬ、……女の私などいらぬ……!」 「そうやってお前は否定する。女であることを否定する。なのにお前の髪は長い。その髪だけが主張するのさ。自分は女だとそう強く主張して、お前の言葉と食い違う――自己矛盾を起こしているのだと気付かないのか!」 「!」 衝動が懐刀を手にさせた。 首の後ろに差し入れ、燃えたぎる憤りのごと、涙の代わりに刃を引き抜いた……! 「――――」 ばさり、と地に落ちる髪の束。 激しく上下する肩、荒く乱れる呼吸音。 感情のこもらない表情でザインはその一部始終を見つめ、カリーナは右頬に傷のある男を睨む。 余韻は刃の反射する光のみ。 それで何かが、また、変わるのか――そのようなことなど、何一つ知らず。 「……いいのだろう、これでいいのだろう!これでお前の欲求は充たされたのだろう!」 カリーナは力の限りに叫んだ。 激情が彼女を包み込んでいた。 手にある懐刀だけが、全てを切り刻むように冷たく煌めく。 荒い呼吸。 息苦しい呼吸。 必死になって繰り返す。 自分が自分として生きるために。 「――――」 ザインは一度目を閉じ、暫しの間の後、徐に腰を浮かした。カリーナに歩み寄る。 カリーナはとっさに刀を突き付ける。が、ザインは有無を言わさぬ眼差しでカリーナの瞳の奥深くを覗き込み、それにそっと手を添えて脇に下ろさせる。膝を折る。地の上から髪の束を取り上げ、口付けをする。 「これは俺が預かっておこう」 告げると立ち上がった。カリーナの頭の上にある彼の顔は、微かに笑ってすらいた。満ちたような、安らいだような、自信を得たような、そんな笑み。 カリーナはただじっとその眼差しに吸い込まれるしかなかった。 混乱した心を不思議と落ち着かせていく、そんな彼の優しさの深みに――。 そしてザインは、空気に溶けるような声で、囁くのだ。 「ジグルの民は独立の向こうに未来を見る。将軍カリーナはヴィゼルの向こうに未来を見る。そして俺は、お前の向こうに未来を見る」 「……な、に……?」 身を引き裂いていく静寂の中の。 目の前に佇む男の、絶対的な笑みが。 心の中に、染み込んで――。 「俺の命を、お前にやる」 ――吹き荒ぶ風が天幕を揺らす。 それに呼応してランプの炎も揺れる。 冷えた空気が全てを覆い尽くす夜。 濃紺の空に浮かぶは、十三夜の月。 |