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四.宴
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こうして川べりの陽射しの中、ゆっくりと目を閉じると思い出すことがある。 幼少の頃過ごした海辺、漁船の帆、波の音。干した魚、潮の匂い、母親の笑顔。白い貝殻、砂の感触、友達の声。 当たり前すぎるほどの平穏に包まれていた日々。来るべき漠然とした未来に思いを馳せていた日々。 あの日々を手放そうとしたのはどうしてだったのだろうか。今となってははかり知ることも出来ない。ただ分かることは、強くなりたい、その一点。その思いだけが自分を突き動かし、村を飛び出させたということ。 それからの生活の方が決してよいと呼べるものであったわけではない。しかし、そこに沢山の楽しみと快楽を見出だした。戦うことはもちろん自分にとっての最大の楽しみだった。自分の力の前に屈伏していく強者たち。それが自尊心を満足させる。おいしい食事と酒と美しい女は行き場のない欲求を充す。手にした大金でそれらを存分にむさぼる快感は、そう簡単に忘れられるものではない。 だが同時に、傭兵という世界に足を踏み入れなければ絶対に経験しなかった苦悩も得たのだ。何度も極限の状態で向かい合った生と死。なぜ自分は剣を手に人を傷つけるのかと問い続け、そのたびに息苦しさを覚えた。 そしてどうしようもない底無しの空虚感。所以は自分の行き着く場。考えなくてもいいはずのものだった。しかし、ある時自分はそれに気が付いてしまった。自分の最期はどういうものなのだろう、と。 とにかく滑稽な死に方は後免だと思った。馬鹿らしい死に方も後免だった。だから、愚暗な主人のために命を落とすのは絶対に許せないと思った。 どうしたら自分は満足するのだろう? どういう最期を自分は望み、こうして我武者羅に戦い続けているのだろう。 「――――」 一人静かに漫然と目を閉じる時に思い起される、過去の優しい情景と、心を荒波だてていくその問い。 答えは未だに得られない。ここでこうして目蓋を閉ざし思い出されたといっても、一向に導き出される気配は何もない。 柔らかい陽射し、匂う風、水のせせらぎ、土の温度。 それら全てが、感覚という感覚を身体全体から奪っていくのが明瞭に感じ取られた。全てがぼやけていくのだ。全てが微睡みの中に吸い込まれていくのだ。あたかも、自分が答えを手にすることを恐れているかのように、それを阻止しようとしているかのように。 恐れる? 何が? 思考が飛ぶ。恐れている。その言葉が引き込んでくるのは、暗闇の情景。暗闇の森の中、二つのちっぽけな明かりと、柔かな月明かり。風のせいばかりではなく、震える彼女の声。 あの時彼女は恐れていた。 恐れる? 本当に? 何を、恐れる? 何に怯える? どうして? そうだ、どうして。どうしてお前はそんなに怯える? 何に怯える? お前は心に刻み込んでいたのではないのか、その魂に。自分の全てをヴィゼルに捧げるのだと。なのに、どうして受け入れられない? 怯え、震える? そんなにも、らしくなく……。 ああ。 ――その時、彼のとりとめのない思考と健やかな安らぎを打ち破るものが、あったのだ。 突然、それは現実の光と共に、やってくる。 「やっと見つけた!」 彼は殺気を感じ微睡みから瞬時に距離を置くと目を開けた。しかし遅かった。薮から飛び出してきたと思われるそれは、ザインが身を構えるより先に、視界を塞ぎ体全体にのしかかってきたのだ。 胸を圧迫され、声を上げることも出来ない。ただもがく。 「やっぱりここにいたんですねぇっ、兄貴。小隊長が探してましたよぉっ。あいつまた会合に顔見せなかったなって。知らないですからね、そのうち見捨てられても。でも、兄貴なら見捨てられてもどってことなさそうですよねぇ。だって兄貴は誰よりも強いですから。絶対に生き残っていそうですよねぇ。その点あの小隊長ときたら、」 「――とにかくどけっ!」 ザインは体の上にあるものを両手でむんずと掴むと、力ずくで容赦なく投げ飛ばした。キリアンは突如として宙を舞うはめになっても、地に体がつくと同時に体勢を建てなおし、第二波が届かない位置まで後退して、何事もなかったかのように笑った。 ザインはただ、そんな強者の弟分向かって、大仰に溜め息をついてやるしかない。 ああ。しかし目は覚めた。 そうだ。ここは故郷の海辺ではない。暗い森の中でもない。ここはジグル。北方の山地、鉄と剣の土地。その川岸。自分はここに、隊の会合を無視して一人静かに考え事でもしようかとやってきたんだ。 隣にいるのは幼友達でも母親でも女将軍でもない。キリアン。 「一体何なんだ、キリアン。何か用なのか?」 眩しいほどに緑が映える川辺で剣を抱え胡坐を組む。背をまるめ恨めしげに上目遣いで彼を見る。キリアンは、相変わらずの笑顔でザインに寄ってきた。川を向いて腰を下ろす。 「やだなあ。用があるのは当たり前じゃないですか。じゃなかったら、こんなに必死になって探してませんってば」 いつもと同じ、何事もそれなりに楽しんでやろうというキリアンの口調。その女のような可愛らしい笑顔の裏にはどんなものが潜んでいるのだろうかと、本気で不思議に思ってしまう。 「で、用は何なんだ?」 とりあえず尋ねる。キリアンは答える。 「さっき小隊長から、出陣までの予定が発表されたんです」 「ああ、そうかい」 そこでザイン、大きく欠伸。やはり体は寝に入りたがっているらしい。だから、両手を頭の後ろに、ごろんと横になる。目を閉じる。 「兄貴ぃ、聞かないんですかぁ?」 「聞くさ」 「聞くって体勢じゃないんですけど」 「聞くさ」 「目、瞑ったままで?」 「聞くのは耳だ。なんで目がいる?」 ああ、そうですね、とキリアンは諦め口調で呟く。少したって、話を切り出す。 「出陣は満月の夜、二日後です。これは知ってますよね」 「ああ」 「その前の日には結団式。各部隊でやる簡単なものです。で、今夜は十三夜の宴」 「宴?」 「言ってしまえば必勝祈願の宴なんですけど。舞踏を月に奉納して、ヴィゼルと祭司たちが祝詞を唱えて、他の兵や武将らには酒と食事が振る舞われるらしいです。それが、今夜夜半から行なわれるらしくって、正規軍の方は準備や何やらでもう慌ただしいですね」 「傭兵隊には関係ないんだな?」 「全くないわけじゃないですよ。酒と食事はやっぱりもらえます。確かに、宴自体に参加することは出来ないんですけどね。兄貴、興味あります?」 「あん? そうだなあ」 「さっき天幕の方で何人か見たいって奴がいたんですよね。そいつらの目的はヴィゼルですけど。だから、ちょっこっと下見してきました。なんとかなりそうです」 「相変わらず早いな」 「元盗人の意地ですよ、情報収拾は。どれだけ素早く正しい情報を仕入れて、その中で自分がいかに動けば一番うまくいくか。盗みは下準備で決まるんです」 そう。キリアンはもともと傭兵ではなく、盗人だった。ザインと出会ったのも、当時ザインが雇われていた主人の屋敷にキリアンが忍び込んできたからだ。その時、キリアンはザインに捕まった。キリアンはザインの雇い主の前に出され、殺されそうになった。それをザインが止め、盗人から足を洗うように説得し、だったら他の生きるすべを教えてくれと頼むキリアンに、これしか教えられないと生き抜く剣を教えたのだ。 思い起こしてみればそれも懐かしいものだった。もうどれほど前の話になるのだろうか。何だかんだといって二人同じ所に雇われていることが多いため、急激な時の流れというものを感じない。自分が傭兵として働きだした頃からキリアンがいつもそこにいるような気になっていたが、そういうわけではないのだ。出会った時を懐かしく感じる。それだけの時は過ぎている。無情にも。 「兄貴ぃ? 寝ちゃったんですか?」 そんな彼の声がして、目を開けた。見慣れた女顔。――弟分だが弟子でもあるのか、と、そんなことに気づき、驚いた。ややこしくなってきたなと、もう一度目を閉じる。 「話は終わっただろ。だったら寝かせてくれ」 何も考えずに横になっていれば、睡魔が意識を奪い去っていってくれるはずだった。それが体の欲求でもあったはずだった。今度こそ変な思考に煩わされる事も無く眠れるだろう。いい夢が見れそうだ。眠たいと、思う。 だが、キリアンは話を続けようとする。 「確かに小隊長の話は終わりですけど、もう一つ、あるんですよね」 ザインは応えない。 「いいんですかぁ? 兄貴が俺に調べてほしいって言ったことじゃないですか。カリーナ将軍の過去――」 「何か分かったのか!」 目を開くと同時に飛び起きた。おかげでキリアンの方が面食らったようだ。ただでさえ大きな目をますます大きくして、言葉を失っている。その顔を食らい付くようにじっと見ていると、キリアンは大きく嘆息した。目を細め、呆れかえった表情をくれる。 「何か、嫌ですね」 「何が?」 「この情報を兄貴に話すのが、ですよ」 「嫌ってお前、俺に話すために仕入れたんだろ?」 「そうですけどぉ。そんなに心待ちにしていたと分かるとぉ、何かぁ、出し渋りたくなります」 「おい、キリアン」 厳しい口調で促すと、キリアンはもう一度溜め息をついた。不貞腐れた顔をして、口を開く。 「じゃあ、一つだけ、教えてもらえますか?教えてくれたら、俺も仕入れた情報、話しますから」 「ああ。いいが……何をだ?」 キリアンがつい、と顎を上げた。品定めをするような目でザインをとらえ、訊く。 「兄貴、あの女将軍に惚れてるんすね?」 ザインはとっさに口を閉ざした。キリアンの目付きは益々鋭くなった。 僅かな間の後に、ザインは短く答える。 「違う」 「嘘つき」 「嘘じゃない」 「嘘だ」 「嘘じゃないと言っている」 「だったらなんであの女将軍の過去が気になるんです? なんでそんなこと、兄貴が知る必要あるんですか?」 詰め寄るキリアンに、ザインは再び口を閉ざした。視線を彼から外し、川に流した。太陽の光を受けて、様々な煌めきを見せるその流れを見つめる。眩しい。目を細めて、頭の中で思いを巡らす、考える。 「おそらく、あいつが俺と同じものを求めているからだ」 腕の中で剣が音をたてた。 途端、心の中に潜んでいた思いが次から次へと立ち上ってきた。その発見が何だかおかしく感じられ、くっと笑うとザインは続ける。 「確かに、なんでこの俺があいつにここまで執着するのか、それは分からん。惚れているというのなら話は早かったがな、でもそうじゃない。ただ、……救いたいのかもしれん」 「救う?」 「そうだ。馬鹿げた話だ。救う。優位に立っている者が出来る行為だ。あいつが聞いたらまた怒るだろう。でも、俺の気持ちを表すのに、一番近い位置にいる言葉だ。救う。そうだな。俺はあいつに女に戻ってほしいのかもな」 「女に……?」 「だってそうだろう? 女が男の恰好をしているのは不自然だ」 「不自然、ですけど……」 「ああ。本当に馬鹿げた話さ。この俺がなあ。なんでこんなになっているか、正直自分でも分かっていないんだ」 「……でも、兄貴はカリーナ将軍を救いたいって言うんですね?」 改めて問われて、ザインは沈黙した。 息を抜き、笑顔を消すと、答える。 「そうだ」 目の前でキリアンが嘆息した。彼の表情からも、微笑みは失せていた。いつもの、巫山戯ているような色は不思議なほどにどこにもなかった。 ザインが促すと、キリアンは目を向けてきた。いつになく真面目な面持ちで、口を開く。 「この話……裏、ちゃんと取れてるんです。カリーナ将軍を昔から知る同郷の人にも確かめました。みんなが同じことを言いました。……信じられなかったら、その人たち紹介しますから」 「お前の情報を疑ったりしないさ」 「ありがとうございます。けど……兄貴はこの話、聞かない方がいいかもしれない」 「おい、いまさら何てこと言うんだ」 「俺は、聞いてもらったほうがいいんですけどね。兄貴があの女将軍に愛想尽かしてくれたほうが」 「愛想尽かす?」 疑問を復唱する。キリアンが、やっぱり俺のことなんか考えてない、と嘆いた。 「悔しいっすね。今まで誰に対しても本気になれなかった兄貴が必死になっているのって。……カリーナ将軍を、引き裂いてやりたくなりますよ」 「キリアン!」 いつも、何事も冗談めかして物事を口にするキリアン。しかし今は、現実のものに変えんばかりの危うさがあった。普段ふざけた調子の分、本気か嘘か見分けるのは難しい。特にキリアンをよく知らない者は、全てが嘘なのだと思い込んでしまう。でも彼は、巫山戯た調子で物を口にしつつ、本当にそうしかねない実行力と実力を持っている。 強く咎めの口調で名を呼ぶと、彼は鼻で笑い、歪んだ笑みを浮かべた。 「ほら、必死の形相。殺されそう。女将軍のこととなったら、俺なんかどうなってもいいんですものね」 「何を言っているんだ。お前だって、俺の大切な友人だろう?」 「友人? 俺が、本気で兄貴に惚れていても、本当にそういえるんですか?」 「巫山戯たことを――」 「ほら! いつもそうだ! そうやって、全部嘘だって決めてかかっている! 俺、兄貴のためだったら何でもできるっていうのに、兄貴のためにしか、出来ないっていうのに! 全然気付いてくれない! いい弟分で終わらせてしまって! 俺がどんなに兄貴のことを思っても、兄貴のために動いても! 兄貴は俺のほうを向いてくれない!」 ザインは、口を閉ざした。 初めて、だ。これほどまでに顔を上気させ、力のこもった双眸を目の当たりにするのは。声を荒げるキリアンを目にするのは。衝撃がないといったら嘘だ。今まで知ることのなかった彼の真の部分に触れたような気がして、ザインは戸惑った。 何一つ彼に対してなせないでいると、キリアンはうつむいた。全身に力を漲らせ、声を絞りだした。 「ああ、ちくしょう! 兄貴のせいでカリーナを殺したいのに、兄貴のために殺せないなんて!」 「キリアン!」 彼の名を呼ぶことは反射行動だった。張り上げた声に、キリアンは一瞬、びくっ、と肩を振るわせた。すると徐々に、キリアンの体からは漲った力が解き放たれていく。顔の色も白く戻り、瞳の狂気も薄れていった。 しばしの静寂が二人の間を流れ、そして、彼は静かに話を始めた。 「――将軍カリーナは、十年前まで、もっと北の山の中に住んでいました。そこが、彼女の故郷です」 女将軍の過去。彼女が必死になって抱え込んでいるもの、その事実。 ザインが、今の彼女の在り方に大きく関わっていると目を付けた、その――真実。 「兄貴!」 聞き出すと共にザインは立ち上がっていた。今にも飛びだしていってしまいそうな所、キリアンの金切り声に引き止められた。彼を見下ろす。 「どうするんです? 何をするつもりです!」 「行くんだ。あいつの所へ行く」 「やめてください。兄貴が行ったってどうにもならないことは、兄貴が傷つくだけだってことは分かったでしょう!」 「俺が傷つく? 分からんな。分からんのさ。違う。俺の知っているカリーナはそんな女じゃない。そんな人間じゃない。違うんだ。矛盾しているんだ。あいつは、自分でも何も気付いていない」 「嫌だ、兄貴、嫌だ! 俺を大切な友人って言ってくれるなら、行かないでくれ! 俺、本気で兄貴のこと――」 「キリアン。お前は俺の大切な友人だ」 「兄貴!」 「そして俺は、あいつの向こうに、未来を見ているんだ」 ザインは一人、薮の中に身を投じた。 |