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三.悪夢
〜3〜

 
 視界を遮る朝靄が晴れ、澄み渡った晴天が木々の隙間からやっと覗かれる。
 息が白い。
 凛と冴え澄んだ空気は、一つ一つ、肌を刺し、喉を焼き、感覚という感覚を麻痺させていく。
 間近の木の上で、鳥が鳴いた。それに目をやり確認を取る余裕はない。その鳥と思しきものが、馬の目の前を飛び去った。馬は嘶き、体勢を崩す。カリーナはとっさに手綱を引き声をかけ落ち着かせると、また、前方を見据える。馬のような驚愕も安堵感も、何もない。村まであと少し。
 皮の手袋をした手で、襟巻を鼻の下まで引き上げ口元を、顔の輪郭と髪は外套のフードで隠す。冷え込む朝だ。これほどの装備をしていてもおかしくはない。
 村に入ると同時に馬から降りた。繋ぐことはせず、手綱を引いて昨夜の記憶を頼りに歩く。途中、二、三人の村人と出くわす。彼女等は皆、カリーナの姿は認めるが、さほど気にする様子もない。ジグル剣を携えているのを見て、正規軍の軍人だということは分かっただろう。そのため、関わらないようにしようとしているのかもしれない。ただ、誰一人として、それがかの女将軍だとは思ってもみないだろう。
 カリーナがたどりついた先の家の前では、子供が五、六人いた。皆遊ぶことに夢中になっている。暫らく佇んでいると、また、中から数人が出てくる。孤児院か。母屋の大きさや雰囲気からして、そういう感じがした。若い女性が一人姿を現したので、声をかけた。行くべき場所を教えてもらう。背後で、「かっこいい」という声があがった。
 もう一度村の中を通ると右に折れた。林を抜けると、せせらぎが聞こえてきた。朝日に煌めく川が見えてくる。カリーナの立っている場所は小さな崖になっていた。言われたように、水の流れに沿って道を下って行くと、川辺に下りられるようになる。脇の木に馬の手綱を括り付け、カリーナは川辺に足を運ぶ。下流を見てやると、男が一人、身を屈めて洗濯をしていた。水は痺れるほど冷たいはずだ。時折口元で息を吹きかけながらも、彼は作業を続けた。
 彼は川辺に尻をつけていた。左足は膝を外に折って、その上で洗濯板を支えていたが、右足は異様なまでにぴんと伸びたままだった。
 カリーナはもう一度、襟巻とフードで出来るだけ顔を覆い、男に寄っていった。足元で砂利が擦れ、音をたてる。
 彼が顔を上げた。人に警戒心を抱かせない顔だ。面長の輪郭に下がった眉、細い目。その目が、カリーナを訝しく思っているようだった。何も言わず真っすぐに近寄るカリーナを、じっと見上げていた。カリーナは足を止め、男を見下ろした。男も、村人同様、カリーナが正規軍の人間だということには気付いているはずだった。だが、間違いなく自分に向かってきたカリーナには何も言わず、再び洗濯を始めた。黄ばんだ布が、板に擦り付けられる。少ししても、男は動じた素振りを見せない。カリーナは、目を細め男を見下ろしたまま、ゆっくりと口を開く。
「――昨夜、お前を見た」
 一瞬、男の動きが止まったかのように思えた。が、気が付くと、何も変化はなかった。
 水音だけが耳に付く。
「軍の方ですね?」
 やっと口を開いた男はそう言った。落ち着いた穏やかな声。カリーナの目に映る彼の頭と手は、同じ調子で揺れ続ける。
「そうだ」
「女の方なんですね。羨ましいな」
「羨ましい?」
「戦いたくても、私は戦えません。右膝が生れつき曲がらないんです。だから、徴兵からも外されました」
 男は、淡々と語った。
「戦いたいのか?」
「複雑です。膝が曲がったら、嫌がっていたかもしれない。怖がっていたかもしれない」
 彼が、板の上にあった布を脇によける。続いて、洗濯物の山から一つを手にし、水に浸す。両手に息を吹きかけ、板にこすりつけ始める。
「だけど、ヴィゼル様のためなら、命は惜しくない」
 言い切る、彼。
「……ヴィゼル様は、この村で見出だされたと聞いた」
「ええ。そうです」
「……私は昨夜、ヴィゼル様の跡をつけた」
 沈黙。
「どういうことだ?」
 彼が手を水から上げる。指は最早変色している。両手をこすりあわせ、息を吹きかける。もう一度繰り返し、作業を再開する。変わらない調子。
「十年前、私の目の前で、彼女は連れていかれました」
「ニトゥカ将軍だな」
「私と彼女は、同じ孤児院で育った。年が近いこともあって、いつも一緒にいた」
「彼女が見出される、十四の時までか?」
「そうです。……ええ。私は彼女を愛していた」
「そして彼女もお前を愛していた」
「もう過去の話です」
「未練はないのか?」
「私の中で、彼女はもう死にました。彼女が【月の印】を抱いた時、ヴィゼルは死んだんです」
「死んだ?」
「今、ヴィゼルと呼ばれる彼女はヴィゼルじゃない。あのお方は、【月の印を抱く者】。それ以外の何者でもない」
 また、洗濯物をかえる。手をこすり合わせ、息を吹きかけ、水に浸す。川が眩しく煌めこうと、風が吹き荒ぼうと、彼の手は休まることを知らない。
「私も、ヴィゼル様に未来をかけている者です」
「…………」
「あのお方の目指す未来を、待ち望んでいるんです」
「…………」
「軍に一人、女将軍がいると聞きました。そのお方は、しなやかな身のこなしに、明晰な頭脳に、人を引き付ける美貌と自信を兼ね備えていると聞きました。……あなたのことだったんですね」
「初耳だな」
「ヴィゼル様を、よろしくお願いします」
「何?」
「あのお方の目指す未来を、お願いします。ジグルの独立、変革と、希望を」
「……お前は……」
「私は、前線に出て戦えません。こうして、未来を担う子供の世話しか、ジグルのためには出来ません。ですから、どうか」
 そんな切実な思いを吐きながらも、彼の手は止まらなかった。逆に、動きは激しくなっているようだ。強く、板に擦り付ける。
「大丈夫だ。ヴィゼル様は、全てを超越しておられる」
 言い切ると、また一瞬、彼の動きが止まったように見えた。勘違いだと言わんばかりに、再開する。水が大きく跳ねる。
「あのお方には、未来がある。……いや、未来しかない。あのお方には、過去は必要ない」
 暫しの、間。
「それを、確認しにきたんですか」
 彼が呟く。
「私という存在は、彼女の中から消えている、と」
「無論。そして、お前もそうだと言った。間違いあるまい?」
「……ええ。そうです」
 動きが遅くなる。濡れた布の擦れる音より、川水の流れ去る音が、耳に付く。冷たい、水。
「お前はいつもこんな早くから洗濯に精を出しているのか?」
「……いいえ」
「だろうな。体に悪い。もうやめておいたほうがいい。孤児院の女性がお前の突然の奇怪な行動を訝しがっていた」
「……そうですか」
 彼の呟きと同時に、彼の手は止まった。左手は板を支え、右手は洗濯物と共に水の中につけられたまま。俯いた視線の先がどこを見ているのか、彼を見下ろすカリーナからは、何も分からない。
「まあ確かに、誰にだって突飛な行動に出たくなる時はある。男の恰好をしている私だとてそうなのだろう。皆そうだ。誰だってそうだ。しかし、それが人間というものなのだろうよ」
 そう言い置いて、彼女は踵を返し、その場を跡にした。
 朝の冴々とした光の中。
 最後の一言がコルダの中で大きく反響したことを、カリーナは知らない。


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