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三.悪夢
〜1〜

 
 半月に、雲がかかる。
 薄い霞を通して、なお、月はほのかな明かりを下界に投げかけようとするが、それも霞が濃くなれば、叶わなくなる。
 途端、闇は深くなり、風の存在のみが強く感じられる。
 草木を鳴らし、長い髪を玩んでいく、冷たい風。
「……あ」
 闇のために、そこに小枝が突き出ていることに気付かなかったらしい。見事に髪を一房絡み取られ、足を止めた。
 つい、と振り返り、小枝を手にとる。
 持っていた剣を脇に抱え、両手で髪を解こうとする。が、暗くて手元はまるで見えない。指先を様々に動かしてみるが、寒さに悴んだ指は思うように動かず、まるで開放される見込みはない。
 仕方なく、絡まった髪を引っ張ることにする。切れてしまっても、それはそれ。いつも一つに纏めているのだ。一房先がばらけようとも不様になることはあるまい。いざとなったら、切りそろえればいい。
 小枝と髪を手に持ちなおし、力をこめようとした。風が強く吹いたので、一瞬躊躇した。と、カリーナは息を殺す。気配が、したから。
「力ずくで取ろうとするな。せっかくの綺麗な髪がもったいないじゃないか」
 声と同時に、ごわついた指が闇の中からのびてきた。それは髪と枝に触れると、その姿から想像できないほど器用に動き、見事解き取る。頭皮の一部の突っ張りが無くなり、楽になる。
「すまない。ありがとう」
「ほう。これは驚いたな。お前からそんなに素直な言葉が聞けるとは」
「何を勘違いしている。貴様は私を何だと思っているんだ。社会において人間関係を円滑にするための最低限の教育は受けている。それとも、貴様の周りでは珍しいか?」
「珍しいといえば珍しいのかもしれん。まあ、俺には感謝の言葉も知らん輩と付き合う気はないから、俺の周りにはそんな奴はいないがな。ただ、驚いたのは、お前の態度の変化だ」
「変化?」
「柔らかくなった。気のせいか?」
「気のせいだ」
「それはとんだ無礼を。わざわざ回りくどく俺を呼びだしてくれたのは、俺に心を開いてくれたからだと思ったが?」
「呼び出したのは、いつまでたっても商売道具を取りにこない獣だ。いらないというのなら、去ってくれてかまわない」
「獣? 俺のことか?」
「私の天幕で蹴躓いた覚えがある馬鹿のことだ」
「取りにいこうとはしたんだがな。あの日以来、お前を離れた所から取り巻く兵が増えて近付けなかった。どうやら俺のことを見抜いた優秀な部下がいるらしいな」
「……なるほど、ゲルヌか。血の気の多い若造だ」
「お前に大層心酔しているとみえる。大切にすることだ」
「奴の不安の種がよく言ったことだ。そら、いるのかいらないのか、はっきりしろ」
 脇に抱えていた大剣を差し出し、言った。
 カリーナが、それとなく部下の一人から傭兵隊の指揮官、傭兵の部隊長を通じてザインをここに呼びだしたのは、これを渡すためだった。
 カリーナだとて、さっさとこの落とし物を処理したかったのだ。天幕の中に置いて仕事につければよかったが、盗まれるという可能性を考えるとそうはいかなかった。武人にとってジグル剣は一種、社会的地位の象徴。武人でジグルの民のカリーナにとってこの剣は誇りでもあるのだ。
「わざわざすまなかった。あの時は本当に俺もどうかしてたんだ。うまいことお前と話が出来て、興奮しすぎていたのかもしれん。にしても情けない話だ。傭兵仲間にジグル剣を忘れてきたといったら、どじと思いっきり罵られてしまった」
「ああ。本当にどじなことだ」
 冷ややかに言い放つとカリーナは踵を返した。風が吹き荒ぶ闇の中を歩み出す。
「ところで、今夜お前は一人で見回りをしているのか? いつもなら何人かで見回りにはあたるだろう?」
「当たり前だ。一人で駐屯地の全てを見て回れというのか」
「じゃあどうしてお前は一人なんだ?」
「お前は本当の馬鹿だな。他に兵がいる所になぜわざわざ私がお前を呼びだす?」
「なるほど。一人になったということか」
「そういうことだ」
「この後、他の奴らと合流するんだな」
「いいや」
「何?」
「合流はせん。今夜は私一人でここを張る」
「……物騒だな」
「そうでもない。ここはある意味一番気を揉むが一番安全であるはずの場所だ。私だとて、大外の見回りを一人でやろうとは思わん」
 なるほど、とザインはもう一度カリーナの背後で呟いた。ここは駐屯地の中でも最も重要な場所――ヴィゼルの天幕がある場所だ。もちろん、ヴィゼルの天幕のすぐ外では、数人の女官と近衛兵が見張りをしているが、それより外側は軍部の持ち場であった。その一番天幕寄りを、今夜カリーナは一人で張っていた。本来なら五人程であたる場所である。が、カリーナはぬかる事無く、本来夜営場がない、大内のすぐ外に、五人を配置し、ヴィゼルを守っていた。それもこれも、今夜、剣を忘れていった大馬鹿者のザインと接触するための配慮であった。
 その当の彼は、カリーナにつかず離れず付いてきている。
「…………」
 深い闇の中。
 不意にカリーナは足を止め、ザインを振り返る。
「いつまで付いてくる気なんだ?」
 木の葉が頭上で騒めく、闇。
「ああ。俺もさっさと退散する気だったんだがな、お前が一人だと聞いて、そういうわけにもいかなくなった」
「心配だとでもいうのか。見縊られたものだ」
「邪魔か?」
「邪魔だと言ったらどうする? 去るか?」
「いいや。少し離れた所にいるだろうな」
「ならば邪魔をするなというだけだ」
「……分かった。気をつけるさ」
 風が吹き、月が出た。
 柔らかい光は頭上から降り注ぐ。
 周りの様子もうかがうことが出来るようになる。ここは森のはずれ。ヴィゼルの天幕は、森とは反対側の、岩陰の向こうにある。
 目の前からは、ザインが歩み寄ってきていた。その顔が少し微笑んでいるように見えたのは、月光のせいばかりではあるまい。
「…………」
 ザインはカリーナの隣で足を止めた。
 顔を見るなら、上を向かなくてはならない。あのジグル剣にふさわしい体格の持ち主だ。それだけで相手となる者を威嚇するのは充分だろう。その上、人相をひどく悪化させている、右頬の刀傷――言葉をかわせば、それ程恐れる必要のない人間だとは分かるが、傷が目を引くことにかわりはない。
「何だ?」
 ずっとその右頬を見つめてしまっていて、そう返された。いや、とだけ口にして、カリーナはゆっくり足を進める。ザインも遅れず付いてくる。
「――貴様は、どうして傭兵なんかになったんだ?」
 徐に発した問いかけに、少なからず驚いたという空気が伝わってきた。ややもして、答えは頭上から返ってくる。
「さあ。どうしてかな。自分でもよく分からん。ただ、まだガキの頃、俺は強くなりたかった。誰にも負けないくらいの力が欲しかった。そのために選んだのが、傭兵をやってるっていう酒飲みのじじいだった。そいつは俺に剣を教え、力試しにと仕事も斡旋してくれた。当初は傭兵など続けるつもりはなかったんだが、一歩踏み込んだら抜け出せなくなっていた。その時は、我武者羅に命を懸けて戦うのがおもしろくてな。――この傷は、もう後戻りが出来なくなっていた頃にこしらえたものだ。もう少し早くに作っていたら、俺もずるずるとこんなことやっていなかっただろう」
 微かに眉を顰め、ザインの顔を見上げると、彼は軽く肩を竦めて、
「その時初めて死ぬということが分かったんだ」
 と言った。
 カリーナは前方の闇に視線を戻す。
「そういうお前はどうして軍部に入ったんだ?」
 降ってきた質問に、カリーナは彼の顔を見上げた。ザインは前方を見つめたまま。
「力が欲しかったとか言っていたな。だが、軍人でなくても力なら得られたはずじゃないか? 将軍まで登りつめたお前だ。下っぱのように徴兵されて戦っているわけではなく、軍に入りたくて入ったのだろう?」
 言葉を繋げるザインを、口を閉ざしたままじっと見た。沈黙の間が流れ、何かに気付いたように彼が視線を向けてきた。途端、狼狽える。
「あっと……すまない。言いたくなかったら言わなくていいんだ。本当にいいんだ。軽々しい質問だったな。別に深い意味があってのことじゃない。単なる興味だから、気を悪くしたなら無視してくれ。本当にそれでいい」
 必死に言い繕うザインをカリーナは見つめ、暫らくしてついと視線を戻すと、ふっと鼻で笑う。
 ばさばさっ、と髪を乱して、風が吹き抜けていく。
「私の求めるもの全てがそこにはあったからだ。力、社会的地位、それに伴う信頼、誇りの維持……。親父が兵士だった。北の方の山中の集落で保安官をしていた。その影響もある。そう。親父は誇り高い兵士だった。まだ伝説でしかなかったはずの【月の印を抱く者】に命を差し出すことを望んで兵士になり、望みの通りに死んでいった。親父はヴィゼル様に大層心酔していてな、私が軍に入りたいと言ったら、お前もヴィゼル様のために死ぬのかと涙を流して喜んだ。変な親父だった」
「……お前もヴィゼルに心酔しているんじゃないのか?」
「忠誠は誓っている。だが、心の全てをとらわれてはいない。僅かながらでも彼女を客観的に見つめる目は残っているさ」
「それりゃまた、他の奴らに聞かれたらやばそうな発言だな」
「そうかもな。皆、ヴィゼル様には絶対を求めている。月の如き……神の如き絶対をな。あの方があれほどの美貌、威厳、気品、知性を兼ね備えていらっしゃるのは、【月の印を抱く者】である故だ。【月の印を抱く者】であるならば、そうあらねばならない。そしてあのお方は、我々の期待を裏切る事無く、そうあるべくしてあられる。だから皆、あのお方の向こう側に未来を見る……見ることが出来る」
「未来?」
「そうだ。ジグルの民は皆、私も、ヴィゼル様に未来をかけているんだ。本気でジグルの独立を願う奴などそうはいない。そこまでジグルは民族性に溢れた民ではない」
「俺には異常なほど団結して見えるが?」
「月への信仰は、そうかもしれん。しかしそれと民族性は違う。我らは貧しいながらも大した不満もなく過ごしてきた。アーベンからも、それ程ひどい扱いを受けた覚えはない」
「それで独立宣言とは……アーベンも驚くな」
「だが、皆がヴィゼル様に未来を見る以上、独立はなされなければならない。……絶対は、あると信じられなければならない。……そうだな。ヴィゼル様にそれ程の期待をかけるあたりが、ジグルという民族性の象徴なのかもしれん」
「ジグルの象徴、か……」
 カリーナは、不意に視線を前方の空に投げかけた。そこに一際輝く星があるので、目を細める。
 溜め息混じりに呟いたザインの言葉。
 それを心の中で反芻する。
 ジグルの、象徴。
「…………」
 皆が期待をこめてヴィゼルを見る。
 自分たちの未来をヴィゼルに見る。
 求めるのは可能性、道標。
 信じられる永遠、絶対。
 どこかで忘れてしまった自分自身。
「俺も切実に求めているからこそ、こうして傭兵なぞをやって彷徨っているのかもしれん」
「何を求めている?」
「居場所だ」
「……なるほど。居場所か。それは私もそうかもしれんな」
「そうなのか?」
「だから、戦いが続けばいいと願う時がある」
「そりゃまた人道に背く発言だな」
「早い時期の独立を願いながら、独立後の自分に不安を抱く時がある」
「……女に戻る気はないのか?」
 ――一瞬の間。
「女には戻らんよ」
「全く?」
「全くだ」
「……勿体ないな」
 その、落胆の様を隠そうとしてまるで出来ない言い様に、思わず笑い声は吹き出ていた。
 口元に微笑を浮かべ、改めて夜空に目を向けると、カリーナは声を風に乗せ、呟いた。
 雲のかかる、半月の夜――。
「女は嫌だよ。男に振り回されるのは、もう後免だよ」


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