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二.禊
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月さえも息をひそめる、静寂の夜に――。 一人になると、沢山のことが見えてくる。 幾人もが自分を囲い、自分を失わせる時には見えなかったものが。 風の色、水の色、炎の色。 木の呼吸、地の嘶き、草の囁き。 人の眼、人の肌、人の手。 生きとし生けるもの全てのうねり、そして、自分自身。 自分の、――心。 「…………」 女官長がこの天幕の中から姿を消して、一体幾許の時が過ぎたのだろう。女官長を見送った状態のまま、一体幾許、自分はこうして佇んでいるのだろう。 それすらも分からなくなるほど、彼女は一人、寝台の前で立ちつくしていた。 しかし、問いが生じたのは、やっと彼女が彼女自身に戻ることが出来たからだ。 それまでの間、彼女に意思などなかった。自分を見る他人の目が無くなった途端、彼女は、もう一人の彼女から本来の彼女に戻ることを望み、どれほどかの時を無意識で費やし、こうして意思を取り戻した。 本来の、自分。 本当の、自分。 それを。 「…………」 それは、彼女のあるべき姿ではなかった。あってはならない姿だった。彼女自身、そうであってはならないと、自分を律し、ここまで来ていた。 その有り様は、周囲が望むものであるから、という理由で語り尽くされるようなものではない。周囲の望むそのものを演じられるほど、自分を殺しきることは彼女には無理な話だった。 「…………」 だが、それでも彼女は演じていた。 気が付いた時には、もう引き返すことが出来ない所まで歩んでしまっていたからだ。 そして結局、彼女は自分が周囲の求める姿に成り果てているのも知らず、自分が演じているということすらも忘れてしまうほどに役になりきり、幾年も過ごしてきた。 そう。今の今まで、彼女は彼女であることを忘れていた。 自身が望んでいたはずの姿を思い出したのは今――否、今日の、昼だ。 川辺での、あの瞬間。 「…………」 今まで死を覚悟したことがないわけではない。 自分の口から自らの下に付く者たちに通達を出す際は、いつでも人々の敵意を感じた。民の前に姿を見せるときは、いつでも周囲に気をめぐらせ、その時を覚悟した。 実際、自分に刃を向ける者もいた。自分の命を欲しがる者もいた。 けれど、いつでもそれはなされはしなかった。自分の目が届くその前に、全ての始末はついていた。 だから彼女は、事実を知るだけであって、その者がどのような目をして、どのような頬をして、どのような息遣いをして自分の命を狙ったのか、それを知らなかった。事実を事実として受けとめるだけで、そこに血の通った人がいるという実感など、沸いてはこなかった。 いや、知ってはいた。人が人を殺すということ。自分が人の手によって命を狙われているということ。 それが、夢物語のように囁かれるだけで。演じている自分が狙われているのであって、自分自身が命を落とす瞬間など、想像もつかなかっただけで。 「…………」 しかし、川辺でのあの瞬間は、彼女を夢から醒めさせた。 実際に醒めたのは、今。 演じている自分――【月の印を抱く者】というヴェールを久方ぶりに剥がしたその時。 ただ一人のヴィゼルに戻った時、彼女は【月の印を抱く者】という夢から醒めた。 そして、夢は幻でなく、自分自身のことなのだと、ひしと認識した――そう、認識してしまった。 あの瞬間が、あの光景が、【月の印を抱く者】の数年間にわたる仮面を砕く楔を打ったのだ。 ヴィゼルをヴィゼルに立ち返らせてしまったのだ。 「――――」 猛々しい息遣い。獣のごとき形相。血走った双眸。胸の奥底から生ずる音なき咆哮。それと、生暖かい、血潮。 「…………」 思わずそっと、手を胸に沿わせてしまう。 ほのかに膨らむ乳房と乳房の間。掌を強く押しあてる。 早く打つ鼓動を感じ取ると、安心が出来た。 いや、まだだ。本当はこの胸に短剣が突立っているのではないかと、疑ってしまう。 その感触が、ここにはある。 鋭い刃が自分の胸を貫く、その感触が、光景が、感じ取れる。 夢ではなく。 「――――」 俄に膝が震えだした。 もう駄目だった。【月の印を抱く者】としての自分が崩れることを拒もうとするが、気丈にその場で立ち続けることは最早かないはしなかった。 ゆっくりと、彼女は地に落ちる。 夜着が地に擦れることも、冷たい地面に肌を触れさせることにもかまわず、彼女は落ちる。首を項垂れ、必死に両手で体を支える。 「……おぉ……おぉ……」 身体全体が震えだした。止めることは叶わなかった。それに呼応するかのように、喉からは声ならぬ声が漏れいだした。 「おぉ……おぉぉ……」 涙を流せればどれ程よかっただろう。慟哭できれば、どれほど楽になったことだろう。 だが、衝撃は、彼女にそれを許さない。 「おおぉ……おおぉぉ……!」 彼女を許さないのは、月の思召しか。 「おおぉ……おおぉぉ……!」 ――怖い。 ――死ぬのは怖い。 ――殺されるのは怖い。 ――なぜ自分が、 ――なぜ自分がこんなことに――! 「おおぉぉ……おおぉぉぉ……!」 束となって襲いかかる黒い死の恐怖が、ヴィゼルを目覚めさせる。 |