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二.禊
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震えが止まらない。 手はがちがちと鳴り、落ち着かない。 膝も、震えている。 湯に浸かっているというのに、寒気は取り除かれない。 「カリーナ様。お召物はこれでよろしいでしょうか?」 湯ぶねに浸かり湯浴みをしているカリーナの元へ一人の女性が来た。手には女物の服。出来れば女の衣装は着たくはなかったが、ここではそれは我侭になってしまう。彼女もカリーナの気持ちを察し、それでも一番柄の質素なものを用意してくれたのだろう。 「ありがとう。もうあがる」 慌てて答える。声までも震えている。 平静は装ったが、どこまで通じたか不安になる。 カリーナは湯ぶねからあがると、差し出されたタオルを手にし、雑に体の水分を拭き取った。服を身につける。うまく着ることが出来ないのは、手が震えているせいなのか、スカートが久方ぶりのせいなのか。 「世話になった。ありがとう」 湯の面倒を見てくれた女性にそう言い置くと、カリーナは足早に家を出た。 ここは軍の駐屯地にほど近い小さな集落だ。今兵たちは軍の駐屯地で生活を送っていて、皆湯浴みもそこでするのだが、カリーナは男の中での貴重な女。さすがにそんなところで裸になるわけにもいかず、湯浴みの時はこうして近くの集落の一つの家に厄介になっているのである。 今訪れた家は以前にも何度か来たことがあった。そのため、家の女主人が快く湯をかしてくれるのは分かっていたが、如何せん、今回はカリーナの用意が悪かった。着替えも何も持ってこずに、馬と身だけで訪れてしまったのだから。 川べりから帰る途中、急に湯浴みをしたくなり、一度自分の天幕に戻ったものの、いても立ってもいられなくなってすぐにまた馬を走らせてきたのだ。 カリーナがここまで衝動的に行動を起こすことは珍しかった。いつも、どれほど熱くなっても冷静な判断は欠かさず、些細な失敗でもほとんどしないというのに。 「帰ろう」 自分の馬に声をかけ、手綱を手にする。女物の衣服のため跨がっていくわけにもいかず、歩いて帰る。集落を抜け、崖の上を行き、森に入る。通り慣れた道だというのに落ち着かない。いつも馬に乗っているためだろうか。それとも、陽が陰っているためだろうか。 「…………」 空を見上げた。 風で木の葉は揺れ、騒めいている。その隙間から見える空。 誰かが夕焼けは血の色だと言ったことを思い出す。 そいつは嘘つきだと、目を細め、呟く。 程なくして正規軍が駐屯している場に帰り着く。カリーナには将軍ということで天幕が一つ当てられていたが、それは幾つもの天幕が立ち並ぶ端の方にあった。森を出てから自らの天幕に行く迄には距離がある。その間、何人もの兵がカリーナを見、僅かであっても驚きを見せたが、彼女は厳しい顔をしたまま前だけを見据えた。天幕に辿り着くと脇に控えていた部下に馬を任せ、中に身を滑り込ませる。 途端、全身をどっと疲れが襲った。肩が異様に張っている。 日が沈んだために、分厚い布で出来た天幕の中は暗かった。このまま眠りに落ちることも考えたが、とりあえず明かりをつけようと思う。まだ目が暗闇になれないため、これでは着替えを探すことも出来ない。 天幕の端に立っているランプに寄っていく。二つの火打ち石を取り上げ、打ち付ける。まだ手は震えているのか。いつもよりつけるまでに少し時間がかかる。苛立たしい。 ぽう、とランプに明かりが灯されると、全てが橙色に染められた。柔らかい色だ。これが時には全てを燃やし尽くす脅威となるなど、今は考えたくもない。 もう、いい。 今日は、疲れた。 カリーナは目を閉じる。何よりも先に着替えようと考える。踵を返し、地面に置かれた衣装箱に視線を流す。と。 目に飛び込む……異物? 「…………」 人の足。 「――ひっ」 「おい!」 思わず飛びずさった。 肩がランプに当たった。 それを彼が支える。カリーナの腕と共に。 正気――? 「何奴?」 反射的に我に返ると、男の腕を薙ぎ払い、距離を取り、懐刀を抜いた。 そう。侵入者は男だ。 大きな体をした男。着ている服はジグルの物ではない。なのに、腰にはジグル剣。顔は、不安げに自分を見て……右頬に、傷。 こいつは……知っている? 「すまない。お前がそんなに驚くとは思わなかった。驚かせる気はなかったんだが……」 一瞬にして様々な思いが頭の中を駆け巡っていった。その山ほどの選択肢の中からカリーナの口をついて出たのは。 「お前は、先程の」 そうだ。見知った顔だと思ったら、先程川べりでヴィゼルの危機を救った男。 なぜ、こいつがここに? 否。違う。今この男に問うべきは、それではない。 自分は、ジグル正規軍の将。 「お前は誰だ? ここで何をしている? 私がジグル軍の将、カリーナと知っての狼藉か。返答次第では、ここで斬って捨てる」 身構え、凄む。 相手は体躯のいい男。腰には大振りの剣。 それを相手にして、確かにカリーナには今、懐刀一つしかない。しかし、怯む必要はどこにもなかった。これぐらいの不利な状況など、どうにでもなることを経験から知っていたし、事実、カリーナには少々の劣勢など容易に覆せるだけの実力があった。 ――が、今現在のカリーナはいつもと違った。いつものように、体から湧き出る自信で相手を威嚇しきることは出来なかった。 なぜか息はあがっていた。スカートの襞の中で膝がかすかに震えていた。手も、震える。 駄目だ。震えているのを悟られてはいけない。早く、決着を付けなければならない。 「お、おい。ちょっと待ってくれ」 なのに、男はカリーナの焦りとは裏腹にどこか落ち着いていた。困っていた、の方が正しいのかもしれない。懐刀を構えるカリーナに近付こうとし、やめ、手をのばそうとし、やめ、一歩退くと大仰に一つ息をつくのだ。 「傷つくな。俺のこと覚えていないのか」 「先程ヴィゼル様の危機を救ったことは覚えている」 「それじゃない」 「あの時が初対面だ。馴々しくしないでほしい」 「三日前、傭兵隊が闘技大会を行なっている時、お前はヴィゼルと共に崖の上を通った」 「ヴィゼル様を呼び捨てにするな」 「すまないな。ところで、返答は?」 「ああ。確かに。それがどうしたと言う?」 「その時、目があった」 「それで?」 「それだけだ」 「何?」 「それだけだ」 「…………」 この男とまともに問答しようと考えたのが間違いか。確かに、言われてみればあの時目のあった男だと思い起せる。強靭な肉体。右頬の刀傷。しかし。 「目があっただけで、人の天幕に潜り込むことが許されるとでも思ったのか?」 男はジグルの人間ではない。彼の国とジグルの倫理感がずれている、とも考えられなくもないが……今は考慮対象外だ。 「別に俺は、目があったから馴々しく出来ると主張するつもりはない。ただ、目があったことを思い出してもらえれば、俺が誰か分かってもらえると思っただけだ」 「お前が誰か?」 「俺はジグルに雇われた傭兵ということだ。怪しくはない」 充分に怪しいではないか。あの時平然と他の傭兵に交じっていたところを見ると、正規に雇われた傭兵だということは分かる。が、それだけで、間者である可能性がなくなるわけではない。 本当にこの男は何を考えているのか。無礼にも程がある。自分のことをなめているのか、それとも、最早救い様のない人種なのか。 どちらにしろ、不快でならない。腹立たしいことに変わりはない。 カリーナは男をますます睨み付ける。と、男が再び息をついた。腕を組み、首を傾げ、眉を顰めて、改めて口を開く。 「いかんな。回りくどい。自己紹介などもっと簡潔にすませられるはずだ」 「ならばすませたらどうだ?」 「ごもっとも。――俺の名はザイン。言ったとおり、ジグルに雇われた傭兵だ」 「それで間者か?」 「違う。俺はジグルに私怨も怨恨も愛着も執着も何も持っちゃいない。そうだな。何かあったとするなら、このジグル剣だ」 そう言って、男は手を腰にある大剣に添える。 「俺はこの剣を手に入れるためにここにきた。今となってはこの通り手に入れたわけで、このまま面かってもいいんだが、雇われた以上、金の分だけは働かなきゃいかん。それが俺の信条だ」 「ほう。金によってお前は働くのか」 「当たり前だ。俺は慈善事業をやっているわけじゃない。まだ死ぬ気はないし、無駄死にはもっと後免だ」 言い切るその時の眼差しには、鋭い光が宿ったような気がした。が、すぐに穏やかな瞳に戻ると、男は話を続ける。 「それでだ。なんで俺がこんな所にいるかだが、言ってしまえばな、俺はお前に興味を持った」 「何?」 突然の告白。悪怯れているところはない。 腕を組なおすと、ふむ、と自分自身で納得している。 「そうだ。興味を持ったんだ。だから、お前とはじっくり話をしたいと思った」 「……だから、天幕に潜り込んでいたと?」 「そうだ」 ……本当に正気なのか? 「川からお前が帰るのを追いかけた。二本足が馬に追い付くわけもなくあっさり置いていかれたがな、ここを訪れればどうにかなると思った。が、お前はいない。外で待っていると、兵がやってきて追い払われる。仕方がないから、中で待たしてもらおうか、と」 「……お前、正気か?」 たまらなくなってカリーナは尋ねてしまった。男は、少しの間の後、 「正気じゃないかもしれん」 などとあっさり答えてくれる。拍子抜けだ。 「自分でもなぜこんな行動に出たのか、実はよく分かっていない。自分自身が一番驚いているのかもしれない。まあ、楽にしようじゃないか。今言ったとおり、俺は何もする気はない。話をしたいだけだ」 「笑止。腰に大剣をぶら下げている奴の言葉を信じろというのか?」 男は剣に目を移すと、ああ、と呟き、それを腰から取った。カリーナの足元に向かって、地を滑らす。 「これでいいか?」 「…………」 カリーナも懐刀を下げた。肩の力を抜いた。 自分の判断は甘いのかもしれない。しかし、この男は本当に何もしない、そんな気になってきたのだ。それに、このような異様な行動を取る男の本当の目的を見極めることも必要なはずだ。とりあえず、足元にある大剣を拾い上げ、男から離れたところに持っていく。刀も鞘にしまい、懐に入れる。 「ところで、似合うじゃないか、その服」 反射的に顔をあげ、きっ、と目を向けた。 だがそこには、天幕に着くまでの間に向けられていた無数の好奇とは違う視線があった。 男は、カリーナが何も反応しなかったかのように、言葉を続ける。 「男の服でも凛々しくていいとは思うが、そんなにきれいな顔をしているんだ。女の服も着ないともったいない」 「……余計なお世話だな」 「女物は嫌いなのか?」 「動きが制限される。能率的ではない」 「その口調だと、普段はまったく着ていないようだな。どうして今は着ているんだ?」 「成り行き上だ。偶然に近い」 「なるほど。じゃあ俺は、貴重な偶然に立ち合わせてもらっているわけだ。嬉しいこと限りないな。こんな美女と話をしている」 「……座れ。どこの輩か分からんような奴に見下ろされるのは好かん」 顎で男の脇にあった椅子を示し、ぶっきらぼうに言い放つ。 「俺は誉めたんだがな」 と、口にしながら、男はゆっくりと椅子に腰を下ろし、足を組んだ。 「そういう科白は、お前の手中で喜んで遊ばれる女にでも言ってやるんだな」 「その類いの女に言う科白は本心じゃないさ。本心じゃない言葉はそれだけで輝きを失う。それだけに吐いているほうが興醒めだ。だからそんな言葉は軽々しく言わんさ」 「それでお前は何をしにきたんだ?」 「なるほど。このような言葉は好きじゃないとみえる」 「からかいにきただけならさっさと帰ってもらおうか。私がここで大声を出したら、外から部下が押し寄せてお前など放り出してくれる」 「そう言うな。俺は本当にお前と話をして、お前のことが知りたいだけなんだ」 「友人にでもなろうというのか?」 「そんなところかもしれん。それとも、俺みたいな男は嫌いか?」 予想していなかった突然の問いにカリーナは言葉を詰まらせた。男は口端に微かな笑みなどを浮かべながら返答を待っている。 カリーナは、じっとそんな不敵な男を見下ろした。いくら見つめても、彼の表情が変わることはない。掴み所のない色をなし、楽しむかのようにカリーナを見返している。 「…………」 カリーナには男の意図が全く読み取れなかった。本当に他愛のない会話をするためだけに訪れたとでも言うのか? それとも、自分を口説いてからかうため? どちらにしろ、これほどまでの危険を冒すには割に合わない。そう。危険、だ。彼にとってこの状況は、危険極まりないものであるはずだ。 先程の自分の言は虚勢ではない。今この場で声を上げさえすれば、何人かの兵が天幕の中まで押し寄せ、明らかな不審者であるこの男を拘束するだろう。この男がどれほどの力を持っているのかは分からないが、そんなことは関係ない。多勢に無勢。男に勝ち目はない。そして拘束されたが最後。ジグル正規軍の将であるカリーナを狙った敵としてただちに処刑されるだろう。その判断に、ヴィゼルの危機を救ったという事実は意味をなさない。特に、出陣前の現在、軍全体に異様なまでの緊張が張り巡らされているのである。 そんな状況下。この男は、命を懸けてまでここに来たといっても過言ではないのだ。 しかし、何をしに? それがカリーナには分からなかった。 考えれば考えるほど、答えは逃げていき、カリーナを混乱させていた。 「返事がないとなると……それとも、お前は女の方が好きなのかな?」 「…………」 ただ、この男に対してひどい不快感を覚えるということだけは、隠しようのない事実であるようだった。 不気味な笑顔に向かって、あからさまに目を細め、カリーナは言い放つ。 「男は嫌いだ」 そうして、男に背を向けた。地に膝をつき、足元にある衣装箱の蓋を開け、中をのぞく。着替えを探しだそうとする。 「へえ。そうなのか」 男の声から、彼が自分の反応を面白がっているのが取れた。何を暗示させているのか、それも気持ちが悪くなるほどに分かる。 カリーナは、邪魔なしがらみを全て取り除くが如く、もう一度、言い放った。 「女はもっと嫌いだ」 そこにあった服を掴み衣装箱に蓋をし、立ち上がると同時に手にあったそれを寝台向かって放った。ばさり、と不様に広がって落ちる。 「……男も女も嫌い? 驚いたな。俺はてっきり、お前は女が嫌いで男の恰好をしているのだと思った」 器用に話がすりかわった。男の声が今までほど軽く、からかうようなものではなくなった。 なるほど、とカリーナは小さく呟く。 この男が自分の何に興味をもち、何を聞き出したいか、それが分かったからだ。 体半分だけ男に向き直り、見下げてみる。男は僅かに眉間に皺を寄せ、カリーナに目を向けていた。 少し鼻で笑ってやる。視線を、男から橙色の光を放つランプに向けた。揺れる明かりまでが自分の言葉を待っているかのようだ。 「そうさ。私は男も女も嫌いだ。男は何もかもを力で支配し、その力で無力なものを守ってやっているのだと思っている。女は女で、愚かな程に無力で、その無力を容認し、男に守られて然るべきだと思っている」 「どちらも許せない、と?」 「許す許さないの問題ではない。自分がいかなる人間になりたいか、だ」 「だから男でも女でもなく、か? 中途半端だな」 「なんとでも言うがいい。他人など気にしない」 「しかし俺には、お前は男になりたがっているように見える」 ふと、男を目でとらえる。淡い光によって作り出される陰影が、微妙な感情を全て深刻にさせる。 息苦しさを感じ、眼球だけを明かりに戻す。 それでもふつふつと沸き上がってくる心の蠢きを抑えきれず、カリーナは自らに言い聞かせるように、吐き出した。 「男であっても、女でありたくはない」 そして、数歩歩んだ。天幕に立てかけてある男の大剣に寄り、それを手にしようと上体を屈める。 「……だからお前は、自分を傷つけてまで剣を手にするのか?」 どくん、と心臓が強く打った。剣に向かって伸ばされていた手も一瞬止まった。が、すぐに動きだすと、冷えたそれを掴み上げた。また歩み男に寄ると、剣を真っすぐに差し出す。 「お前の好奇心はこれで満足したはず。さあ、話はおしまいだ。さっさと帰ってもらおうか」 しかし、男はカリーナの言葉を耳にするだけで、ぴくりとも動かなかった。深い影を落とした顔でカリーナを見上げたまま、じっとそこに座っていた。愛刀であるはずのこのジグル剣には、一切目もくれず、……ただ、カリーナを見る。 覆い尽くすのは、静寂。 音は、唯一――。 「――!」 その失態にカリーナ自身が気付いた時は、すでに手遅れだった。 とっさに差し出した手を戻し足の裏を地に滑らせたが、それらはすべて事の後だった。 差し出した剣が、鞘に擦れてたてた音――その僅かな音に、その微かな震えに、男は気付いた。 そして、その事実から逃れようとするカリーナの手首を、間違いなくとらえる……! 「何をする!」 派手な音をたて剣が地に落ちた。 立ち上がった男は、剣などには気を取られない。 熱い眼差しをカリーナに向けるばかり――。 「やっぱりだ。震えている」 「だからどうしたと……!」 「初めてだったんだろう、人を殺すのは」 「初めてじゃない!」 「確かに初めてじゃなかったかもしれん。だが、あれほどまでにゆっくりと、人が死んでいく様を見たのははじめてだったんじゃないのか? そう、事切れる奴が生身の人間だとはっきりと認識したのは」 「戯言を……!」 激昂し、掴まれた手首を振りほどこうと力をこめる。しかし、男の掌がうろたえる気配はなかった。平然とした顔をして、男はカリーナを見下ろしている。 それがどれだけカリーナを虚しくさせるか知ることもなく。 「戯言なんかじゃない。恥じるような事でもない。誰だって初めはそうだ。人を自分と同じものとして見ることの出来る倫理感をもつならな。消えゆく命を目の前にして平然としていられるはずはない。俺だって変わりはしない。初めて人を殺した時は、三日も震えが止まらなかった」 「だからなんだという? 貴様と同じで嬉しかったなどという言葉を待っているのか? それとも、私が貴様と同じ程度の人間であることに優越感でも得るというのか!」 必死でカリーナは男の手を振りほどこうとした。奥歯を噛み締め、掴まれた右手首に左手を添え、男の手の指を一本ずつ引き剥がそうとした。なのに、その大きな手は、太い指は、びくともしない。 「優越感などいらん。お前だとてヴィゼルを守っての事だ。本望だとか、ぬかすつもりなんだろう?」 「至極当然! ヴィゼル様をお守りし、ジグルを未来に導く道を切り開くのが私の役目、使命! そう、ヴィゼル様は未来だ、希望だ。あのお方のためなら、私は死も厭いはしない!」 頭上から投げかけられる男の哀れみの眼差しが、情が、カリーナの胸の内をどうしようもない憤りで充たしていく。 取り留めのない感情は――敗北感。 ヴィゼルへの思いを語ったところで、男の支配下から逃れることは出来ない。 手首はきつくとらえられたまま。 気持ち悪い。 「ヴィゼルのため、か。それにしては震えているな」 「何をっ……!」 「ヴィゼルのためと割り切れるのなら、これほどまでにはならないはずだ」 「ヴィゼル様を呼び捨てにするなと言ったはず!」 「そうだろう? お前はヴィゼルを守ったんだ。だったら、そうして胸を張って、英雄を気取っていればいい」 「何が言いたい!」 「なのに、お前にそんな素振りはなく、いつもと変わらぬ振る舞いをしようとする」 「貴様、勝手なことをぬけぬけと……!」 「……つらそうだよ」 「貴様は私を――!」 『どれほど侮辱する気なのか』 その言葉は、一瞬のうちに消え失せた。 力ずくで奪われた平衡と共に息も飲み込まれ、呼吸を失った。 見開かれた双眸が輪郭のない炎をとらえ、厚い胸板に張りつけられた耳が男の鼓動を聞いた。 「――――」 それと、頬にそっとふれていく、穏やかな男の声。 「剣の師匠にこうして抱き締めてもらったら、俺の震えは止まった。人の温もりってのが一番人を落ち着かせると、そいつは俺に言った」 両腕ごと体が締め付けられて、痛い。 「飲んだくれでとんでもない剣を教えてくれたじじいだったが、その時ばかりは嘘をつかなかった。俺は次の日、そいつに稼いだ金で酒を買ってやったさ。最初で最後の贈り物だった」 目の中で、淡い光が揺れていた。 瞬きをするごとに、光は背景に滲み、徐々に形を成していく。 その、繰り返し。 カリーナは、静寂の中動けなかった。 強引に引き込まれた男の腕の中で、動きという動きを失っていた。 頭の中が真っ白で、言葉も何も、そこにありはしなかった。 ただゆっくりと、涙が一つ零れ落ちていく。 「……カリーナ?」 「――――」 その呼びかけに、感情は呼び起こされる。 空虚だった両眼に、小さな燈はともされる。 「は、……はな、せ……」 脳裏を掠めゆくのは、過去の情景。 「はっ……はな、せっ……」 気持ち悪い。 「……はなせ……っ」 吐く。 「はなせっ!」 体を捩り、開いた体と体との間に腕を捻入れ、力ずくで男を引き剥がしにかかる。 それでもなお、男の力が緩むことはなく、カリーナはたまらなくなって拳を男の鳩尾に叩きつけた。 ぐっと男が怯んだ隙に拘束を断つ。 後退り距離を取ると、懐刀を抜いた。 刃を、男に向ける。 「おい、カリーナ」 「馴々しく呼ぶな!」 カリーナは男から目を離す事無く、後退りを続け、天幕の出口脇までいく。 呼吸が、荒い。 「どうだ、満足か? そうやって女を力付くで従えさせて満足か? 自分の力を誇示できて満足か? ……そうさ。結局私の体は女のもの、無力な女の体だ。最後に力を見せ付ける男には抵抗できない女の体だ!」 「おい……、カリーナ」 「何をしに来た……言え! お前は一体何の意図があって私に近付いた!」 「誤解しないでくれ。気を悪くしたなら謝る。だから落ち着いてくれ」 「落ち着く? これが落ち着いていられる状況だと思うのか! お前のことを買い被った私が馬鹿だったよ。さっさと貴様など放り出せばよかったんだ!」 「カリーナ、待て……っ!」 衛兵を呼ぼうとした、その時だった。 カリーナの行動を止めるために、男が必死の体でその場を飛び出したのだ――が。 「!」 彼は見事に足元にあった自分の剣に蹴躓いたのだ。平衡を失いとっさに体勢を建てなおそうとするが、飛び出した勢いが良すぎたために叶わず、抑制の効かないままカリーナの右手方向に突進していってしまう。 「お、おおおおっ!」 「!」 そして天幕に激突。倒れなかったのが奇跡なほど、天幕全体が大きく揺れる。 「…………」 「カリーナ様! どうなされました?」 すると途端に外からそんな声がした。さすがに外にいた者たちが中の異変に気付いたのだ。こちらに向かってくる足音も聞こえる。 カリーナはあまりの出来事に茫然として、立ち尽くしすしか出来ないでいた。が、男の行動は早かった。 さっと立ち上がり、カリーナに「すまない」と言い置くと、寝台の脇まで駆けていき、天幕向かって屈みこんでそれを捲り上げ、そこから外に出ていってしまったのだ。 「…………」 カリーナは、その一部始終を見つめたまま、どうしたものかと、動けない。 「カリーナ様? いかがなされました!」 そんな時、ゲルヌが血相を変えて真っ先に中に飛び込んできた。ゲルヌはすぐ脇にいたカリーナに驚きながらも、彼女が無事だったことを見て取ると、軽く頭を下げる。 「先程、天幕が揺れたような気がしましたが、何かございましたか?」 カリーナは、見慣れたはずの至って真面目な腹心を、思わずじっと眺めてしまった。 自分が手に懐刀を持っているのに気付いて、すぐにそれをしまう。ゲルヌもこれには気付いたはずだ。自分がこんなものを持っていて、何もなかったではすまされまい。 さて、どうしたものか。 「……獣が、紛れ込んできてな」 「獣、ですか?」 当然の、疑いの口調。 「そうだ。獣だ。四足の、毛むくじゃらの……寝ていたものだから、狼狽えてしまった。すまない。騒がしたな」 そうして呼吸を整える。ゲルヌは疑っているかもしれないが、これ以上詮索することもないだろう。何もなかったことだけを分かってもらえればいいのだ。 しかし、カリーナの思惑とは裏腹に、ゲルヌはあからさまに眉を顰めていた。何を疑っている? 「なんだ、どうした?」 ゲルヌは一瞬返事をためらった。が、再びカリーナが促すと、ゆっくり口を開く。 「私は、カリーナ様の剣を洗い、ただ今持参した次第なのですが、……あそこに落ちている剣は、カリーナ様のものではありませんよね?」 ゲルヌの視線の先を追う。 天幕の中程に横たわる、大振のジグル剣。 「…………」 「その獣が落としたのでしょうか……?」 さて、どうこたえたものか。 「そうだ。四足の、毛むくじゃらの獣の……落とし物だ」 返事はしたものの、ゲルヌは未だ釈然としないようだった。かといって、カリーナもこれ以上どうすることも出来なかった。言ってしまったことを貫くしかない。それよりも、このことは忘れてもらうのがいい。 平静を装い、カリーナは剣に寄っていった。 腕を伸ばし、片手でそれを地から拾い上げる。 見つめる、大振の剣。 もう、震える音はない。 「……あの、カリーナ様」 改めて、背後でゲルヌが口を開いていた。振り返る。まだ若い彼の頬が紅潮しているように見えたのは、明かりのせいか。 「あの、その衣装、……とってもよくお似合いです」 彼が必死で紡いだ言葉。自分にいつでも付き従ってくれる腹心の言葉。 それを耳にし、カリーナは再び剣に目を落とした。そのまま、彼の名を呼び声を発する。 「私に向かって二度とそういう口をきくな」 慌てて言い繕おうとする彼の気配を感じた。だからカリーナはその顔に微笑を浮かべ、優しく一言、言い放ってやる。 「お休み、ゲルヌ」 そうしてようやく、カリーナはいつもの冷静さを取り戻す。 |