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一.童歌
〜3〜

 
 ジグル軍は、自分たちが主張する領地の南端より、いくらか北に奥まった地に天幕を張り、そこに普段駐屯していた。駐屯地からアーベンの軍の現在の駐屯地の間には一つの森があり、その向こう側は渓谷である。その渓谷までをジグルは自分たちの領地として主張していたが、渓谷に足を踏み入れようとするならば、たちまちアーベンの大軍が押し寄せてくるため、決定的な独立宣言は未だ出せないでいた。
 かといって、アーベンも渓谷より先のジグル寄りの森にはそう滅多にやって来はしなかった。その森はジグルの民が馴染んだ森であり、アーベンの軍は入り込んだ途端奇襲にあい、惨憺たる姿となって敗走するのが、過去の幾度もの戦闘の結果だったからである。
 ジグルが独立宣言を出してよりジグルの暦で三年の歳月が、ジグル軍、アーベン軍共に睨み合ったまま静観すること二ヵ月の時が、今、過ぎ去ろうとしていた。
「このままいつまで動かないでいるのかということです。確かに今、ジグルはほぼ独立を果たしたといってよいでしょう。しかし、アーベンは元より、アーベンを支持する南方の国々が私たちを許しはしません。場合によっては、このままでは他の諸外国をも巻き込んでしまいます」
「諸外国が今になって手出ししてくるとは思えません。ですが、確かにこの時間を無下にするのはどうかと思われます」
「いえ。今はまだ静観の時です。北方の国々が我らの行動を正式に支持してくれたことによって、アーベンも出方を変えるやもしれません。出来得るかぎり、戦いは避けたほうがよいでしょう」
「今になってそんなことが通じるとお思いですか? それに、ジグルより北方の国々とアーベンとの間には交流はないに等しい。北方の国々が我らを支持したからといって、彼らが我々に兵をかしてくれるわけでもない。つまり、アーベンにとってはほとんど変化がないのと同じことなのです。アーベンが態度を変えてくるとは思えません」
 ――冷たい風が吹く荒ぶ夜。
 一番集落寄りにある、最も大きな天幕の中では、ヴィゼルを始め、祭司、将軍ら、ジグルの首脳たちが集まって話し合いをしていた。
 内容は、今後のジグル軍の動きについてである。幾度の戦いを経て、アーベン共々疲れ果て、暗黙のうちに一時休戦を向かえてより二ヵ月間、ジグル軍は兵を休ませ、傭兵を増やし、ジグルより北方の国々への支援か黙認を要求し、足場を再び整えてきた。そして夕刻、北方の国へ向かった使者の最後の一人が帰ってきたのである。返事は、「黙認」。これでジグルに隣接する国全てがジグル独立を支持し、アーベンに肩入れしないことを約束してくれたことになる。その結果と、今日、朝方よりのヴィゼルの集落視察の手応えを踏まえた上で、今後の方針を決めようというわけであった。
「今が決断の時です。傭兵隊も増強し、兵たちの意識も高まり、用意は万全です。今を逃しては、彼らの気を削いでしまいます」
 先程より場を飲み込む討議を繰り返していたのは、最高位祭司と高位に位置する将軍たちであった。ヴィゼルという【月の印を抱く者】が現れる前なら、最高位祭司の言葉には絶対に等しいものがあった。だが、戦いが始まり、ただでさえ武将の存在が重要視されるようになっていく中、一度ヴィゼルが将軍の意見を支持したため、今では将軍は最高位祭司と言い合えるだけの権力を握っているのが現状だった。
 そんな討議を、幾つものランプで淡く橙色に照らし出される天幕の中、カリーナは末席で静かにうかがっていた。
「いいや。我らは最早戦いの民族ではない。元より戦いなど望んでいなかったはず。それを今こそ思い起されよ」
 戦いに対する意気込みを顕にする将軍ムルドゥに対し、最高位祭司も熱く返した。が、ムルドゥは今更、そんなことで引きはしない。
「だからそれが今になってどうしたというのです? 現に戦いは起こっています。何人もの人が死にました。その事実を甘んじて受け入れろと仰るのですか?」
「死んでしまったのは過去のことだ。我らはまだ生きている。生きている者には未来がある。その未来を閉ざすことは何者にも許されない」
「許されないから引き下がるのですか? ならば我らの気持ちはどうなります? 煮え切らない思いを抱え、不安定な情勢の中、未来を生きていけとあなたは仰るのですか?」
「落ち着け、ムルドゥ」
「ダウバ将軍。しかし……」
「お前がいきり立ってどうする。事態が動くわけでもないだろう。……しかし最高位祭司様。ムルドゥの気持ちも汲んでやってください。彼は戦いで弟を亡くしている。それに、ムルドゥのようにアーベンに恨みを抱く者も、今では少なくないのです」
「ダウバ殿。その恨みがまた人を殺させるのです。それを知りなさい。月が我々に何を語りかけるのか、それを知りなさい」
「いいえ。最高位祭司様。月の意志は、今、変化しつつあります。そう。ジグルは今、変化の時なのです。ヴィゼル様と共に我らも、月も、変わっていく。それが時の流れなのです」
 時の流れ。その中に自分たちは身を置いている。ヴィゼルの出現、独立宣言、戦い。全てが時の流れの中でのことだ。確かに、十年前までは考えられなかった。アーベンからの独立、戦争、最高位祭司に逆らうということ、そして、自分が武人になり、前線で戦うということ。全部がヴィゼルの出現による変化だ。
 十年前、突如【月の印を抱く者】としてジグルの民の前に現れた彼女。首筋にあるという【月の印】が見つかるまでは普通の娘として暮らしていたという。それが、今では。
(今では――)
 首席に座するヴィゼルを見てやる。頬を隠すように長い横髪を垂らし、その上に月に奉仕する祭司の証でもある薄衣を被っているヴィゼル。蒼く彩られた唇をきつく結び、甘えることを決して許さない双眸で討議の様子を黙って見つめている。
 おそらくこのまま祭司と将軍の話し合いは平行線を辿るだろう。最終的な決断を下すのはいつもヴィゼルだ。そして、誰も彼女には逆らわない。彼女の凛とした姿勢と、常に決意を秘めている眼差しと、神がかった美しさの前には、誰も逆らうことなど出来ない。
 それは同性のカリーナも然り。他を圧倒する絶対的な存在感を備えるヴィゼルに逆らおうなどという気は微塵も起きはしない。
 誰一人として彼女の姿を目にした者は彼女に逆らえなくなる。その事実はある意味恐ろしい。しかし同時に、カリーナはそうあるべきだと思っている。そうあらなければならないと、思っている。
 彼女はそれだけの神性を備え、皆を間違いなく導かなければならないのだ。誰一人として刃を向けられない、絶対の存在者として、変化をもたらさなければならないのだ。
 時代のうねりと共に、変化を。
 決別と、創始を。
「――卿らの言い分、よく分かりました」
 りぃん、と。
 天幕にヴィゼルの音が響いた。場は突然水を打ったように静まり返り、皆、ヴィゼルの気品に満ちた顔を見た。次の言葉を息を飲んで待つ。
 ヴィゼルは祭司と将軍等の前で眉一つ動かさず、淡々と言葉を紡いでいく。
「最高位祭司。そなたの民を思う気持ち、人を思う気持ち、とても素晴らしく感じ入ります。人の命は何物にもかえがたき宝。人を導く身である以上、それを至上の物とし、決して軽んじてはならぬと、改めて思い知らされます」
「有り難きお言葉でございます」
「しかし、最高位祭司。時は満ち満ちたのです。月は、我らに独り立ちを望んでおいでです」
「は……」
 祭司らの落胆が伝わってくる。将軍らの勝ち誇った高揚感が伝わってくる。
 ヴィゼルは天幕を叩く風の音だけが広がる場を見渡し、前を見据えると、変わることのない威厳に溢れた口調で皆に宣告するのだ。
「次の満月の夜、出陣します。これを最後の戦いとし、渓谷で今一度独立の宣言が成せることを、願います」
 彼女の言に、場の者たちは揃って応える。
「御意」
 ヴィゼルの決断には逆らえない。
 ヴィゼルの言葉を否定など出来ない。
 誰も。誰一人として。
 誰もが、絶対者の前で平伏すだけだ。
(――それでいい――)
 変化の風が吹く。
 肌で感じ取る。
 そして心の中でもう一度、カリーナは呟く。
 それでいい、と。


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