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一.童歌
〜1〜

 
 歌が聞こえる。
 幼子の声だ。
 どこから流れ(いずる)のか。
 それは分からない。
 まだ良くも悪くも研ぎ澄まされぬその歌声は、風に乗り広まり、琴線にまで触れていく。
「……彼の、印へと通ず……」
 合わせ、口吟む。
「カリーナ様、何か?」
 背後から口を挟まれる。
 耳を澄ませるが、最早あの歌声はない。
 目を細め、軽く嘆息すると、カリーナは馬上で振り返る。
「いいや。何でもない」
 告げると、自分の跨がる赤毛のものよりは劣る黒馬の上で、彼はすっと頭を下げた。
 カリーナは視線を走らせる。
 先には、四人の男が担ぐ輿に乗った女性。
 その輿がゆっくりと動き出す。
「次の集落へ移動なされるようだ。行くぞ、ゲルヌ」
「御意」
 輿に続き、馬を歩かせる。荒い山肌を行かねばならない。慎重に、進む。
 一行は歩兵三十と騎兵十五の大がかりなものだ。それが細い道を行く。馬一頭が通って精一杯の場もある。最後尾に付き添う者など、何のために進んでいるのか分からなくなってもおかしくはない。現に、輿が充分伺える位置にいるカリーナだとて、何のために自分がこうして、鎧を付け剣をはき馬に跨がっているのか分からなくなりそうなのだから。
 いつもと同じ日だ。陽は柔らかく降り注ぎ、冷たい風は弱く通り抜けていく。こうして集落を回っても、変わらず人の顔は明るく健やかで、今自分たちの置かれている状況すら信憑性に欠けるものとなってしまう。
 この瞬間がいつまでも続けばいい。カリーナは馬に揺られ一人思う。
 不安定な中での平和。自分の存在価値が消されぬ中での平穏。不謹慎な願いだろうか?
「カリーナ様。カリーナ様は、こうして集落を見て回られるヴィゼル様の真意はどこにあられると思われますか?」
 木々の生い茂る森を抜ける道の途中で。カリーナの後ろを行くはずのゲルヌが馬を並ばせてきた。
 カリーナは成人したてのまだ若い自分の腹心の顔をちらりと見、再び視線を前に向ける。
「ヴィゼル様の真意など、若輩者の私に分かるはずなどない。しかし、あの方は慈悲深いお方だ。自らの民の様子を気にかけておいでなのだろう」
 建前を答える。四十万といわれるジグルの民を率いる者が、そんな生易しい理由のためだけにわざわざ地の民の生活区域に足を向けるはずはない。現状が現状だ。もっと重大な理由がそこにはある。例えば、民の生活状況を見極め、自分に対する支持の如何を確認し、その結果により今後のジグルの方向性を探るため。例えば、民と触れ合うことによって士気を上げるため……何か吹き込んでいてもおかしくはない。それとも、例えば――。
「この森を抜け、崖を過ぎれば次の集落です。確か、ヴィゼル様の故郷だとか」
 ゲルヌもカリーナがこの場で本心を口に出来るなど思ってはいなかったはずだ。年若いといっても、ゲルヌは文武共に優れた立派な武人である。洞察力もあり、カリーナの腹心として周囲の評判も上々である。
 そんな彼の本当に言いたいことをカリーナも察する。前を見据えたまま、彼の言葉を繰り返す。
「ヴィゼル様の故郷、か」
 一行は森を抜け、切立った赤い崖の上に差しかる。程強く風が吹き抜けていく。いつものような肌を刺す冷たさはない。しかし風はカリーナの長い髪を弄んでいく。前方で一瞬、女の悲鳴が聞こえた。目を向けると、ヴィゼルのすぐ後ろを歩いていた女官たちが必死になって長いスカートの裾を押さえている。
 そんな女官たちの様子を、ヴィゼルは輿の上で振り返り、見下ろす。
「…………」
 ヴィゼルの横顔が、頭部より垂らした薄衣の端からのぞかれた。月明かりのような白い肌、薄く桃色づく頬に、凛とした涼しげな目元。ふっくらとした唇は蒼で彩られ、長く、真っすぐ地に伸びる髪は迷いを知らない。気品と威厳と神聖に溢れるその姿。
 ヴィゼルもまだ若い。今年で齢二十四を数えたばかりのはず。しかし、ジグルの民は誰も彼女に逆らわない。彼女を卑下しない。彼女を敬い、彼女につき従う。それが自然の理であるかのように――事実、自然の理と思っている人間も多いに違いない。ジグルの民である以上、彼女を信奉することは当たり前なのだと。定められたことなのだと。運命。
「…………」
 運命。
 カリーナも彼女を信奉している。彼女のためなら死も厭わないと思っている。だからこそ、カリーナは武人になり将になった。ヴィゼルという運命の人を守るために。ヴィゼルという希望を守るために。
 希望を、望みを、祈りを、未来を――。
 ヴィゼルが女官から視線を外した。向けた先は崖の下。カリーナも、促されるかのように目を向ける。あったのは、幾人もの人。強靭な身体の男たち。みな肌は陽に焼け、身体には傷跡をつけ、剣をはいている。傭兵隊だ。
 彼らは大きな円を形どり、ヴィゼル一行を見上げていた。円の中には二人の男。その内の一人、右頬に傷のある目つきの悪い大男と、カリーナは目が合う。
「傭兵隊が何かやっているようですね。力比べでしょうか」
 ゲルヌが後ろで言う。カリーナは視線を前方に戻すだけで応えない。
 風に乗り、歌声は耳に触れていく。
 
 
 
――彼の思いは今まさに  彼の印へと通ず――
 
 


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