刻 〜真士〜いつか見た青空の下

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 真士には、父がなかった。
 物心がついた時にはもう、家には母と二人だけで、父は遺影の中のものだった。
 他には、少し離れた海際の町に、母と同じ匂いがする祖父母がいた。ずっと離れた雪の降る街にも、「真士はだんだん武士に似てくる」と、父の名を懐かしげに口にする祖父母がいた。
 近所には、幼い頃から一緒に遊んでいる友達もいたし、知り合いのおばさんとかおじさんもたくさんいた。特別その環境を不自由と感じたことはなかったので、自分のことを不幸せだ、なんて事は、少しも思わなかった。
 ただ、何かが違う、ということだけはわかっていた。
 自分はみんなと、何かが違う――。
 そんな真士に、母は言った。


あなたは、あなたの信じるように生きなさい。


 「引越し」というものをしてもいいか、と母が訊ねてきたのは、心待ちにしていた夏期長期休暇が始まろうかという時期だった。
 九歳の、夏のこと。
 ――どこに引っ越す?
 本州だ、と母は答えた。
 もう一つの祖父母の近くか、と訊くと、「新潟ほど北じゃない」と言われた。
 新潟がどこにあるか、よくはわからなかったが、だったら南なのだ、今いる沖縄とそう変わらないのだ、と勝手に思った。
 新潟にいる祖父母以外の人のそばで雪は見たくない。そう思っていた真士は、母親の栄転を素直に受け入れた。
 夏休みが始まる前に、母は先に本州に渡った。真士は祖父母の家で寝泊りしながら、休みを思い切り満喫した。休み中、一緒に遊びまわった友達とは「じゃあ、またな」といって別れ、一人きりで「引越し」を体験した。
 新しい家は、さほど以前と変わった感じはしなかった。入った途端、「自分の家」の匂いがしたし、そこにいつものように母もいた。
 ただ、新居にたどり着くまでの道のりは、「いつものよう」ではなった。
 とにかく、人の多さに目が回った。どうしてみな、それほどまでに迷わずその雑踏の中を歩けるのかと、彼らの神経を疑った。
 電車が何本も走っていて、それらが違うものだとは思わなくて、切符を二度ほど間違えて買った。
 暑さにも、スタミナは確実に奪われた。とにかく熱気がまとわりつくように暑い。今まで感じていたような、心地よい暑さではない。
 また真士は、空の色にもうんざりしていた。
 煙突から噴出した煙が、空一面を覆っていると思った。早く晴れないものかと切に願った。それでも、いくらたっても、新しい自分の部屋の窓から見上げる空の色は変わらず、人のざわめきの量も変わらず、真士は一日、ずっと家の中ですごした。
 引越しの荷物をのんびり片付けながら、毎日母が仕事から帰ってくるのだけをじっと待った。
 家から出ない日が四日も続くと、さすがに飽きが出た。引越しの荷物も、所詮二人分。すぐに片付いて、段ボールも捨てられてしまった。
 空が橙とグレーの奇妙なグラデーションを見せる頃、母は帰ってくる。
 真士は、着替えの途中の母に言った。
「明日、カズんとこ、遊びに行って来る」
 ふり返った母は、驚愕に目を丸くしていた。
 搾り出すように、声は紡がれた。
「――真士。カズくんのところは、ここからとても遠いのよ?」
 思い違いに、気がついた。
 「じゃあ、またな」といって別れられるほど、簡単な距離ではない事実を、母の表情は何よりも雄弁に語っていた。
 自分の読みの甘さに驚いて、言葉をなくしてしまったのが、いけなかった。
 母の顔が、曇っていくのが見て取れた。もう手遅れだということはわかっていた。それでも、これは自分の手落ちだ、と、真士は感じた。よくわかっていなかったのは自分。母の栄転を喜んだのも、紛れもない自分。
「そっか。じゃあ明日は、新しいガッコ、見てくる」
 そういって、自分の部屋にこもった。夕飯が出来たら、明るい声で返事をしようと心に決めた。
 自分のたった一人の母の悲しそうな顔は、絶対に見たくなかった。
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